ルンデ〜ナムチェバザール

2025/11/17

△07:15 ルンデ → △10:40-12:05 ターメ → △14:45 ナムチェバザール

今日はルンデからターメを経てナムチェバザールまで、ボーテ・コシ沿いの道をひたすら下ります。昨日の記録に書いたように、この谷はかつて(チベット動乱以前)はチベット人とシェルパ族とをつなぐ重要な交易路であり巡礼路でもあったので、その雰囲気を感じ取りたいというのがこの日の行程への期待です。なお、ナンパ・ラ越えの通商は、中国政府の国境管理が厳しくなっているものの近年でも細々と続けられているということです。

道は谷の左岸の高いところを下流へと通じています。今日は風が強く、ソナムは今朝早くにレンジョ・ラを目指して出発していったドイツ人たちの身を案じていました。

谷の底を見ると、ボーテ・コシの右岸に見事な石組みで区画された畑と数軒の家がありました。あれだけの石組みを作るには相当の年月と労力が必要だっただろうと思いますが、人の気配はなく廃墟感が漂っています。それが11月という時期によるものなのか、本当に打ち棄てられたものなのかはわかりませんが、見ていて寂しくなる光景でした。

道を進むにつれて日の光が角度を変え、谷の中へ入ってくるようになりました。そして谷底の右岸には、先ほど見た廃墟のような石組みが川に沿って点在しており、それらは細い道でつながっています。いま歩いている高いところを通る道はレンジョ・ラから下ってきた(またはレンジョ・ラをこれから越えようとする)トレッカーに対して通行と宿泊の便宜を提供していますが、もしかしたら伝統的な交易と巡礼のための道はあの谷底の右岸道だったのでしょうか。

ルンデからナムチェバザールまではそれなりに遠いので足を速めているつもりではありますが、谷の左岸と右岸とに次々に現れる人の営みの痕跡に惹きつけられて、つい足を止めて見入ってしまいます。ソナムの言によれば、観光客が入ってくるようになってからこの地方の生業は農業や牧畜からサービス業へシフトしてしまったということで、確かに昨夜泊まったロッジの垢抜けた姿と眼下に見えている朽ちたような住居とを見比べればそのことは一目瞭然ですし、ナムチェバザールに到着した日に訪れたシェルパ文化博物館で見た古いナムチェのジャガイモ畑だらけの姿と現在のロッジが林立する街並みとを比較しても、この半世紀ほどで劇的に人々の暮らしぶりが変わったことが理解されます。

などと感慨にふけっていると、目の前にかちかちに凍りついた沢が現れました。これは難しい!……と思っていたら、ポーターのGくんは点在している岩を上手につないでさっさと対岸へ渡っていきました。一方ソナムは、私をこの沢の下流へ導いて、村人が使っているらしい丸木橋を渡らせてくれました。

久しぶりに人里の気配を感じさせるマニ石。そしてどこまでも続く石垣の中の迷路のような細い道。

この石垣の囲いは見渡す限りに広がっていて、写真に写り込んでいるのはごく一部です。一見したところでは無造作に積み上げただけのように思えますが、それにしてはしっかりした壁を作っていて畑を荒らす動物を撃退するのに十分な堅固さを備えていそう。これだけのものを作り上げるのにいったい何世代かかったのかと尋ねたくなりますが、その膨大な努力の跡であるにもかかわらず、少なくとも今はここに住人や作物といったものの気配が感じられません。

試みに一軒の土壁の家に近づいてみたところ、廃屋というわけではなく、屋根は養生され扉には錠前が付けられていました。ソナムによると、この家の主は確かにここには住んでおらず別のところに移っているが、時折家族でやってきてここでお祈りを行うのだということでした。それにしてもソナムにしてみれば、トレッカーである私がこうした人々の暮らしぶりの方により関心を抱いて彼を質問攻めにするとは思いもよらなかったことでしょう。

かたや、この道を観光客が歩くようになって早くの時期に営業を開始したと思われる古いロッジ。「Cho Oyu Lodge」と書かれた看板は錆びつき扉はトタンで塞がれて、これこそ廃屋化しています。一方は真新しいロッジで、これまでの道中でどこでも見られたロッジの栄枯盛衰が、ここでもより端的なかたちで示されていました。

いつの間にか道は右岸に移っており、途中で日本なら確実に通行止めだと思われる崩壊した斜面を横断しながら下流へ進むと、谷の幅が広がってきました。

地図に「Tarangar」と書かれた村にも畑を示す石組みと何軒かの家屋が緩やかな斜面に広がっており、大規模に石を組み上げたその姿にはインカの遺跡を連想させるものがあります。ただ、近づいてみるといくつかの家屋は屋根や窓の色がきれいに塗られており、営業中らしい新しいロッジもあるので、この村が「生きて」いるのは間違いないようです。

それにしても、この人の気配のなさはどうしたことでしょう。この村の前を通る間に人の声は一切聞こえず、ただ風が吹き渡る音があるばかり。5th Lakeでは「荒涼」という言葉を使いましたが、ここでは「寂寥」と形容したくなります。

なんだか異次元の空間を通り抜けてきたような感覚を拭えないままTarangarを振り返り見てから、さらに下流に進みます。

Hungmoまでやってくると、ようやく生きた町という感じがしてきました。近代的な構造の橋でつながれた両岸にそれぞれ密集している家屋は、いずれも新しいものばかりです。

宗教的なモニュメントも急に増え、そしてこれまた久しぶりにマニ車を回すことができました。

ヤク!その生き生きとした姿にうれしくなって正面から写真を撮っていたら、ヤク使いから「あぶないからやめろ」と注意されてしまいました。スミマセン。

Thametangには、コンデ・リ(6187m)を背景として大きなストゥーパがあり、その周囲には数えきれないほどのマニ石が積み上げられていました。この一帯は宗教的な雰囲気が濃厚で、一種の宗教都市として機能していたように思えます。ラサを目指す巡礼者たちもきっとここに立ち寄って祈りを捧げたことでしょうし、マニ石の数々もそうした人々の寄進によるものではないかと想像してみました。

Thametangの下流側の尾根の上に立つと、谷の中に広がるターメの町を見下ろすことができます。この構図に上高地から見た岳沢を連想してしまうのは、向こうの山(6000m峰)が奥穂高岳から前穂高岳への吊尾根のように見えることと、谷の上流から流れてきている白い礫のせいですが、実はこのターメは昨年8月に起きた氷河湖の決壊による洪水の被害を受けており、あの礫の堆積はそのときにターメを飲み込んだ濁流がもたらしたものです。

ちょっと早いですがランチにしましょう、とソナムが案内してくれたのはターメのParadise Lodgeで、ここの女主人はルンデで泊まったRenjo Pass Support Lodgeの女主人の妹さん。つまり彼女もソナムのいとこというわけです。そうした贔屓目は抜きにしても、このロッジは明るく清潔で、注文したピザはとてもおいしく、トイレはもちろん洋式、シャワールームありと完璧です。もしターメに宿泊することがあればParadise Lodgeにぜひどうぞ、とここで宣伝しておきます。なお、このロッジは幸いなことに洪水の被害に遭わずにすんだそうですが、その周辺では建物を濁流に流されて更地になってしまった場所にロッジを建て直す工事が盛んに行われていました。きっと来年ここに来れば、このあたりの景観はより賑やかなものに変わっていることでしょう。

ランチを終えれば、ナムチェバザールまで歩き続けるだけ。ここで道はボーテ・コシに向かってジグザグに下り、深い峡谷を左岸に渡ります。谷の向こうに見えているのは、方角からしてタムセルクとその左奥にカンテガ、右にクスムカングルであるはずです。

ボーテ・コシを渡る橋。このあたりから、植生がぐっと濃くなって下界に降りたという感じがしてきます。

道中の村々や、その中にあるストゥーパなども、初めて見ているはずなのにどこか懐かしい。

そしてついにナムチェバザールに到着しました。ここから見るナムチェの家並みの向こうにちらっと顔を出して我々を出迎えてくれているように見える白い山は、アマ・ダブラムです。

往路で泊まったKhumbu Resortは、ナムチェの斜面の最上部にあるのでこちらから行こうとするとちょっと不便。そこでソナムは町の真ん中にあるSherpa Villageをチョイスしました。中に入ってとりあえず腰を落ち着けたら、まだディナーの時間ではありませんがビールを注文!お酒はまったく飲まないというソナムとは対照的にイケる口らしいGくんにもわけてあげて乾杯です。至福の味にしばし酔いしれた(←大袈裟)あと、熱いシャワーを浴びて身も心もすっきり。さらに電波が通じていたのでWiFiカードを買う必要もなくメールやSNSをチェックすることができましたが、そこにはOさんからの「アイランド・ピーク組は今朝サミットした」というメールが入っていました。すばらしい!

その後のF氏からのメールや後日聞いたところからあらましを再現すると、カラ・パタールを登ってロブチェに降りてきた島トリオ(この日私はロブチェからゾンラへ移動しています)は、翌日(11/13)長躯チュクンに戻り、2日レストを入れてからアイランド・ピークのHC入り。そして今日(11/17)未明にHCを出発して登頂を果たした後、チュクンまで戻ったということでした。その間OさんはどうしていたかというとEBCやカラ・パタールに登っていたそうで、高度順応のために登るはずだったカラ・パタールにロブチェ登頂を終えてから登るとはどういうことだ?と思いながらの行程消化だったそうですが、今日はディンボチェへ移動しており、明日、チェパが引率する面々とディンボチェで合流し、そこからヘリコプターでルクラへ降りるとのこと。ただし、F氏はアイランド・ピークの極寒の中で足に凍傷を負ってしまったため、ひと足先にルクラに飛んで治療を受けているのだそうです。

ディナーは、久しぶりにがっつり肉を食べたいという希望からヤクステーキとし、もちろんビールも注文しました。幸せすぎます……。ところで、ルクラまで一緒に行くはずだったポーターのGくんは、お腹の大きい奥さんが出産間際という状態になったため、明日早朝に一人で出発して荷物をルクラの宿に届けた後、下山して奥さんが入っている病院へ直行することになりました。つまり今日限りでGくんとはお別れになるので、ソナムが給料を、私がチップを、夕食後にGくんに渡しました。すると思いがけずGくんはカタを取り出して私の首に掛けてくれた上に、懐から追加のビールを取り出して私のグラスに注いでくれました。Gくん、ありがとう!重荷を背負って長期間・長距離をよくがんばってくれました。

この日通じた電波は、大きなバッドニュースも運んできました。それは、ヤマレコでつながっていたぼっちさんが昨日(11/16)、剱岳の早月尾根を下っているときに滑落して死亡したというニュースです。

ぼっちさんは、常人では考えられないほどの脚力を生かしたソロ登山で北アルプスを主戦場に刺激的なスピード山行を繰り返しており、ヤマレコでは著名人でした。私も驚嘆の目で彼女が毎週積み上げる山行記録を読んでいたのですが、徐々に登山から登攀の領域に踏み込み始めていたので、そろそろアルパイン・クライミングの技術を身につけ、信頼できるパートナーを伴って安全を確保するスタイルにシフトした方がいいのではないかと思っていた矢先の、残念なできごとでした。

ともあれ、山を愛し皆に愛されていたぼっちさんの御冥福をここに祈ります。来世はぜひスイスあたりに生まれて、本場のアルプスを颯爽と闊歩するクライマーになってください。