塾長の渡航記録

塾長の渡航記録

私=juqchoの海外旅行の記録集。遺跡の旅と山の旅、それに諸々の物見遊山。

ピマーイ

2000/07/22

今日はドン・ムアン空港を10時45分発のフライトなので比較的ゆっくり起床し、タイクーにかつお節をやって機嫌をとってからパクチーたっぷりのお粥と山盛りのラムヤイの朝食をとりました。その後にユウコさんのマンションを出てスタッフに停めてもらったタクシーは緑と黄色のツートーンで、一般には安全とされていますがユウコさんはあまり信じていません。しかも乗ってみると運転手は英語が得意ではないらしく「Airport」はわかっても「Domestic」がわからず、しきりに「International?」を繰り返しています。ユウコさんが片言のタイ語でやりとりしましたが埒が明かず、諦めたユウコさんは「だめ。国際線の方に連れて行かれるから、そこから国内線ターミナルまで歩こう」。ところが高速道路を走って空港が見えるところでタクシーはちゃんと国内線の方に下ってくれたので、なんだ、わかってんじゃんよと大喜びのユウコさんは料金にチップを上乗せしました。

一難去ってまた一難。ユウコさんが死ぬほど嫌いなプロペラ機でのフライトをこなしてなんとか無事にナコーンラーチャシーマーの空港に11時半に降り立つと、今度は来ているはずの迎えが見当たりません。怒り心頭のユウコさんがバンコクのツアー・エージェンシーに電話して待つこと30分、慌てた様子でやってきたのはNARA TOURの日本語ガイド・サイチョルです。彼の言によれば、バンコクのエージェンシーから連絡を受けていた到着時刻は12時50分だったそうで、ゆっくり食事をしていたら携帯電話で呼び出しを受けて驚いたとのこと。しかし、誠実そうで愛想のいいガイド(ユアン・マクレガーを黒っぽくした感じ)なので我々も機嫌を直して車に乗りました。運転手は「まだこの仕事に慣れていません」と顔に書いてあるようなジャニーズ系の無口な青年です。

今日と明日の2日間は、イサーンの玄関口ナコーンラーチャシーマーを中心に周辺のクメール遺跡を訪ねる小旅行で、ツアー料金は1人6,850バーツです。通称コラート(「高原」という意味)と呼ばれ現在ではタイ第2の規模を誇るナコーンラーチャシーマーはアユタヤ朝時代に建設された都市で、19世紀にはラオスとの戦いの舞台にもなり、さらに1981年のクーデター時には政府と王室がここに一時退避してから反乱勢力を鎮圧したという、経済的にも政治的にも重要な都市です。車中でのサイチョルの説明によれば、コラートではタイ語はもとよりコラート独自の言葉(方言のようなもの?)、ラオ語、クメール語などが入り乱れて話されているそうです。

さて、我々はまだ昼食をとっていないのでユウコさんの希望でガイ・ヤーンを食べられる地元のレストランに入りました。レストランのつくりは屋根はあっても壁はなく、風が吹き抜ける開放的な空間にテーブルと椅子、南方的な植栽が置かれていましたが、この地方の郊外型のレストランではこれが一般的です。ここでおいしい料理に舌鼓を打ってから、赤土にサトウキビやユーカリが植わった土地の中を車は走りましたが、その道中でサイチョルから聞かされた、ここでは地下水から塩がとれるという話には驚きました。

やがて町中に入って着いたのがピマーイの遺跡で、中央祠堂を回廊壁が取り囲む構造はクメール遺跡に共通のものですが、ここではもともと街全体が壁に囲まれた大規模な都市であったようです。現在は中央祠堂とその周辺が遺跡公園として整備されていますが、外部回廊の門をくぐるときれいに刈り込まれた芝生の中を真っすぐに参道が伸び、正面には内部回廊に囲まれた中央祠堂が聳え立っていました。

周囲の回廊はバンテアイ・スレイでも見た赤いラテライトでできていますが、中央祠堂は白い砂岩が28mの高さに組み上げられて重厚な姿を見せています。これは素晴らしい!と夢中になっていろいろな角度から写真を撮りましたが、どこから撮ってもサマになるのはさすが。サイチョルの説明によると、屋根の角に乗っているナーク(カンボジア語ではナーガ)の意匠でそれがだいたい何世紀に作られたものかわかるとのこと。後代になるほど装飾が細かく緻密になるのだそうです。また、サイチョルが指差したところに猿の姿が見えましたが、これはもちろんラーマーヤナでラーマ王子に忠誠を尽くす猿軍の王です。

わたし「ああ、ハマヌーン!」
ガイド「いえ、ハヌマーン」

タイのアンコール・ワットとも呼ばれるピマーイは、いつ頃どのような目的で建てられたのかはっきりわかっていない部分もありますが、遅くとも12世紀にはこの地全体が聖域とされ、中央祠堂ほかの建築群がアンコール・ワット造営時のモデルになったとされています。また、クメールの建築物は東向きに建てられるのが基本プラン(ただしアンコール・ワットは陵墓としての性格から例外的に西向き)ですが、ピマーイは南に向かって建てられており、南門から伸びる旧道はアンコール王都へ通じていたと言われています。

すっかりピマーイの遺跡を堪能した後は、おまけのような見どころ2カ所を回りました。まず向かったバーン・プラサートは、古いもので3000年前にさかのぼる人骨や土器が出土したところですが、人骨がそのまま展示されていてその多くがかっと下あごを開いた状態になっているのが不気味でした。

続いて足を運んだのはクメール遺跡のパノム・ワンで、本来ならここも期待できる遺跡ですが、大掛かりな修復工事の真っ最中で見栄えは良くありません。それに工事の様子を見ていると、もともとの遺跡にあんなに手を加えてしまっていいのか?との疑問を拭えませんでした。

これで今日のプログラムは終わり、コラートの市内でも指折りのシーマ・ターニ・ホテルに投宿しました。「島谷ホテル」ではもちろんなくて、シーマは岩、ターニは都、といった意味だそうです。そして夕食はサイチョルの案内で市内のタイ料理レストランでとりましたが、必死になって食べないと残してしまいそうなくらいのボリュームの料理が出てきて、Singhaビールとタイ焼酎ですっかりいい気持ちになってしまいました。