エギュイ・マルブレ

2023/06/21

夜、寝ている間にも山小屋を揺らす強風が時折吹いていて「これは厳しそうだなあ」と思いながらまどろんでいたのですが、午前4時少し前に部屋にやってきたテオの口からも「晴れてはいるが風が強すぎる。これではマルチピッチは無理だ」と宣告されました。したがって睡眠時間を3時間延長し、午前7時から朝食をとることになりました。

午前6時頃に一人で屋外に出て様子を見てみると、iPhoneを構えた自分の身体が風にぐらつかされるほど。確かにこれではコールは届かず、ロープは流され、下手すると人も飛ばされるかもしれません。他のパーティーも、たとえばダン・デュ・ジェアン登攀を中止するなど続々と計画を変更しているようです。

シリアルとパンを中心とした朝食をとりながらアプリで天気の様子を見てみると、空模様自体は必ずしも悪くないものの、風の強さが尋常ではありません。標高4000mで100km/h=27.8m/sというのはとても人間が立っていられる風速ではなく、これではモン・ブラン登頂を目指す人たちも山小屋に釘付けだったことでしょう。ここでテオから「日本ではどれくらいの風速を行動中止の目安にしているのか?」と問われたので、昨年秋の一切経山を思い出しながら「20m/s=72km/hかな」と話すとさもありなんと納得していました。

ゆっくり朝食を終えて8時少し前にトリノ小屋を出発。向かう先は、トリノ小屋から東へわずかの距離(ダン・デュ・ジェアンの手前)にあってこういう場合の転進先にうってつけのエギュイ・マルブレです。

Aiguilles Marbrées

An excellent little peak which is sometimes used as a bad weather option because it is relatively easy to find in cloudy conditions.

トリノ小屋からダン・デュ・ジェアンに向かう氷河上の道は、2014年に始めてシャモニーを訪れたときにも歩いたところ。その道すがらの右側にもっこりと盛り上がっている低い岩の塊がエギュイ・マルブレで、昨日のエギュイ・ダントレーヴと同じくフランスとイタリアとの国境稜線の一部をなしています。この岩塊の前を通過してダン・デュ・ジェアン側から右に回り込んだところから稜上に乗りましたが、見れば驚くほどの人数が先行している様子。しかも明らかに1パーティーあたりの人数が多そうです。

我々も彼らの後に続いて稜線に達しましたが、予想通り技量不足に伴う渋滞が発生しており、テオは先行パーティーのガイドに一言断ってから横の斜面から抜き去る作戦をとりました。そしてぶつぶつと曰く「ガイドに対してゲストは最大でも2人だ。あんなに大勢引率するなんて何を考えているのか理解できない()」。

しかし、そういうパーティーが取り組むくらいですからこのエギュイ・マルブレの登攀自体はいたって易しく、ロープの必要性もさして感じません。昨日のエギュイ・ダントレーヴよりはっきりと一段階容易です。

常に背後にダン・デュ・ジェアンの尖塔と後続パーティーの喧騒とを背負いながらの登高を続け、取付から30分ほどではっきりそれとわかる山頂(3535m)に到着しました。

そうそう、やっぱり山は展望に恵まれてナンボです。

取付から山頂までは西北西へと進んでいましたが、ここで縦走路は直角に折れて南南東に向かいます。山頂から元来た道を戻るパーティーもありましたが、先に進もうとするのであれば、このあたりは地理的な概念が頭に入っていないと混乱するかもしれません(私は若干混乱しました)。

そしてエギュイ・マルブレの楽しいところはむしろここからで、エギュイ・ダントレーヴと同様に稜上の鋭い歯(または恐竜の背びれ)をかわしながらの縦走はところどころにスリリングな場面を用意してくれており、テオの指示でアイゼンを外すことになりました。

なかなか神経を使うトラバースや……。

整備された支点を用いたラペリング。

IV級程度ながら少し頭を使うクライミングも。

昨日のようにガスに包まれて「ここはどこ?私はだれ?」という状態ではなく、自分の現在位置と先行きの岩の様子を見通しながらの縦走なので、楽しいことこの上ありません。

大きく懸垂下降した先からも岩稜はさらに続いていますが、正解ルートは右手の岩のルンゼへの下降で、そこからは意外に近いところにトリノ小屋やエルブロンネルのスカイウェイ駅が見えていました。

こうしたルートファインディングはこの岩稜を熟知しているガイドがついていて初めてできることで、もしかつてシャモニーでロープを結んだ現場監督氏やセキネくんと私とのアマチュアペアだったとしたら、そのまま岩稜の末端まで引き込まれて時間を空費したに違いありません。

ガラガラの岩のルンゼは脆く滑りやすいものでしたが、すぐに雪の斜面になって安全に雪原に降り立つことができました。トリノ小屋の方に少し進んでから振り返ると、エギュイ・マルブレの山頂にもその後の手応えのある岩稜上にも少なからぬ数の人の姿がありましたが、この時点で山頂にいる人たちは安全地帯に戻る前に悪天候につかまりそうですし、岩稜上を進んでいる人たちの下降ルートはテオに言わせればCompletely wrong.なのだそうです。恐ろしい……。

トリノ小屋への帰着はまだ10時半過ぎ。エギュイ・マルブレの登攀はテクニカルには面白いところもあったものの、山行としては3時間もかかっておらずコンビニエントすぎる感はやはり否めません。山小屋のバーで例によってエスプレッソを飲みながらテオは、天候が思う通りにならず容易な岩稜ルート2本という結果になったことを悔やんだ上で「Le Roi de Siamに行けなかったのは残念だが、しかしそれが山というものだ(That is mountain.)」と達観したような言葉で締めくくりました。

スカイウェイ駅からは、隣のプラットフォームの向こう側にエギュイ・マルブレ(ガラス窓越しが山頂、建物の右側が岩稜の末端部分)がよく見えました。しかし、さらに向こうのダン・デュ・ジェアンは灰色の雲の中に取り込まれてしまっているようです。

頭上にふたをするかの如く下がってきている雲に追い立てられるようにスカイウェイでクールマイユールに下り、テオの車でシャモニーに戻りました。明日はエギュイ・ルージュのクライミングで、登るルートは私が決めることになっています(そのためにガイド本を自分も購入しました)が、この日の活動が早く終わったので検討する時間には困りません。

▲この2日間で歩いた軌跡。トリノ小屋を中心に左右に羽を広げるかたちになった。