ラサ (4) - カンパ・ラ

2015/01/01 (2)

午後は郊外へ遠出して、ラサの南西70kmに位置するヤムドゥク湖を見下ろす峠=カンパ・ラを目指します。

ラサ河に沿った道を澄んだ青空の下、西(下流)へ向かいます。ところで、チベット自治区内では外国人の移動は厳しく制限されており、この郊外への移動もバスをわざわざ2台に分けてそれぞれに政府の係官が同乗していました。

やがてバスはヤルンツァンポ河ཡར་ལུང་གཙང་པོ་(下流での呼称はブラマプトラ河ब्रह्मपुत्र)に達し、これを渡って西(上流)に進んだ先から川沿いを離れて、谷筋の側面に付けられたカーブの多い道を登るようになりました。

背後を見ると、ずいぶん高さを稼いでいることがわかります。

2時間ほどのドライブで、標高4900mのカンパ・ラに到着しました。荒涼としているのに美しいと思える、不思議な展望です。向こうに広がっているのはチベット四大聖湖の一つヤムドゥク湖で、カイラス山は午年に巡礼するとご利益が多いのに対し、こちらは未年に訪れるのが良いのだとか。

ヤムドゥク湖の向こうの綺麗な三角錐は、ノジンカンツァン(約7200m)。

チベットの高地にはおなじみのタルチョですが、尋常ではない量が彼方の小高い山の上まで張り巡らされていました。

絶景に酔いしれながらあちらこちらと歩き回りましたが、不思議と息苦しさを感じません。青蔵鉄道の列車の中でいつの間にか過ぎてしまったタングラ峠を除けば、ここが今回の旅で最も天に近い場所です。このままいつまでもここにとどまって日没の光景までも目に収めたいと思うものの、何といっても標高が高く危険な場所ですから、滞在時間は30分に限定されていました。

名残惜しいものを感じながら、元来た道をくねくねと下ります。

その途中、道の脇のちょっとした突起状の地形の上の祭壇のようなものに立ち寄りました。

石積みの祠にタルチョをはためかすこれは、オポと言います。このタルチョの下をくぐって向こうに抜けてみると……。

その先にもこのように簡素なオポが、谷を見下ろしていました。その宗教的厳粛さに心を打たれ、さらにはこのまま下界まで尾根筋を歩いて下りたい衝動に駆られましたが、ここはぐっと我慢。

バスでさらに下ると、谷の中に集落(?)の遺構がありました。今は車で越えるカンパ・ラも、もちろんかつては(あるいは今も)徒歩で越えていたわけで、その道は谷筋を通り、途中にはこうして休息や補給を行える集落もあったことでしょう。

元来た道をラサに戻る途中、橋を渡るところで改めて眺めたのが川の上にかかったタルチョで、これは水葬の場所であることを示しています。西寧のタール寺に向かう途中で見たように、漢族は墓を作ってそこに葬られますが、チベット族で土葬になるのは疫病での死者。それ以外はどうするかというと、ダライ・ラマはポタラ宮で見たとおりミイラ(遺体を塩漬けにして土で固め金箔で覆って仏像としたもの)にしてストゥーパに入れます(塔葬)し、高僧は(貴重な樹木を燃料にする)火葬になるそうですが、一般人は今でもほとんどが天葬(いわゆる鳥葬)、罪人と子供は水葬です(地域により違いがあります)。天葬は単に遺体をさらすのではなく、鳥葬師が手順に沿って遺体を細かく刻み、ハダカムギと混ぜてからハゲワシに食べさせるもの。なぜそうするのかというと、魂の抜けた身体にはもはや用はないのだから、この世でできる最後の功徳として自分の身体を生き物に与えることが良いとされているからです。

……という話題の後で恐縮ですが、夜になればお腹が空くのは自然の摂理というもの。この日は、いかにも漢族向けのお店で鍋をいただきました。

円い中華宅の中央にきのこ鍋(後から肉も)、人民公社マークのペーパーナプキンが備え付けられ、人民服姿のお姉さんがサーヴしてくれます。広い店内は漢族でごった返しており、この店が人気店であることが見てとれました。それもそのはず、出汁のきいた鍋は大変おいしく、日本人の味覚にもまったく違和感がありませんでした。

さて、鍋を見ればおじやを作りたくなるのが大和民族の習性です。オオスミ氏がお姉さんに「ご飯入れていい?」と身振り手振りで聞くとお姉さんは「いやー、それは」とNOのサインを出しましたが、オオスミ氏は構わずご飯を投入しました。中国四千年の食文化を全否定するこの暴挙にお姉さんは呆れた顔ながらも笑っていましたが、誰がなんと言おうとこれは(日本人にとっては)美味。これこそ味の革命です。