ラ・ラヤ峠越え - シユスタニ遺跡

2006/05/17

怒濤のマチュピチュ探訪を無事に終え、今日はティティカカ湖までの移動の日。といっても、そう楽ではありません。添乗員Sさんは毎晩、翌日分の工程表を小さな紙にまとめて配ってくれている(ナイス!)のですが、それによればこの日は、7時にクスコを出発して目的地であるティティカカ湖畔のプーノまで6時間40分もバスに乗っている予定。もちろん途中に休憩も入りますし、見どころとしてはラ・ラヤ峠とシユスタニ遺跡がありますが、出発点のクスコの標高が3,400m、目的地のプーノが3,850mで、その間のラ・ラヤ峠は4,335mです。クスコ二泊で高度順化できてきたとは言え、大丈夫なんでしょうか?

気持ち良く過ごしたロイヤル・インカ・ドスに別れを告げ、トイレもついた大型バスはパチャクテク像に見送られながらクスコ市街を離れて、やがて大きな山並みにはさまれた回廊のような地形の中、きれいに舗装された走りやすい道を一路プーノを目指して南下しました。走りやすいのも道理でこの道は、パン・アメリカン・ハイウェイの一部であり、プーノを越えてボリビアの首都ラ・パスへと続いています。そこまでの間に上述の峠越えがあるわけですが、まだこのあたりは標高もさほど高くなく、とても穏やかな景色です。さして進まないうちにバスは一時停止し、添乗員Sさんがパンをたくさん買ってきましたが、このパン、直径が30cmほどもある大きな円盤状のパンで、表に水鳥の模様が刻まれています。実はこれが明日のティティカカ湖で活躍することになるのですが、一枚を車中で回して皆で少しずつ齧ってみたところ、甘くて柔らかくとてもおいしいものでした。

クスコから南東に30kmのところにあるのは、ルミコルカの門。左右の山並みの間隔が狭まり喉のようになったところに築かれた石造の巨大な門は、クスコへの出入りを扼する関所だったそうですが、先を急ぐ身なのでバスの窓から眺めるだけ。クスコにもう一泊するプランなら、ここまで足を伸ばしてもいいかもしれません。我々はさらに進んで、8時過ぎにウルコスの町で休憩。ここは、アルマス広場に「独立の英雄」みたいな銅像が建っている小さな町です。説明が遅れましたが、今日から明日にかけてのガイドは、デルフィーナさん。そのデルフィーナさんが、ここで袋いっぱいのコカの葉を購入して、まるでポテトチップスみたいに食べています。休憩時間が終わったところでバスに戻ったツアー参加者たちにこの袋が回されて、私も数枚口に入れてみましたが、お茶っぽい味はするものの、乾燥したコカの葉は口の中で脆く崩れてすぐに形がなくなってしまい、そのせいか喉の湿り気が奪われるような感じでケホケホしてしまいました。デルフィーナさんは「カルシウムたっぷりなのよ」と言ってバリバリ食べていましたが……(「飲料について」参照)。

長いバスの旅なので、デルフィーナさんはツアー参加者を退屈させまいといろいろな「小道具」を繰り出してきました。コカの葉に続いては、アルパカとリャマの毛に、かちかちの石のような凍結乾燥ジャガイモ。後者はインカ時代から保存食として利用されていたもので、何年も保つのだそうです。食べるときはそのまま煮込めばOKで、ここでジャガイモは南米原産だったのを思い出しました。そして極めつけの小道具は、今は民間に入られたサーヤこと紀宮清子(当時)さんが1999年にペルーを訪問されたときの写真。プーノで写真に収まっている我らがサーヤの横に写っているのは、デルフィーナさんでした。

広い峡谷の道は、どこまでも続きます。日本では見られない大らかな地形のところどころには、ニュージーランドから移植されたというユーカリの木が目立ち、その上にはどこまでも澄み切った青空が広がっていて、この空の澄み具合も、湿度の高い日本では決して見られないものの一つです。そんな中、屋根の上に生きた羊を3頭もくくりつけて走るバンを追い抜かし、大きな茶色い屏風のようなラクチのビラコチャ神殿を横目に見て進んで、サン・パブロで二度目の休憩となりました。ここには展望台があって、高い所と見ると登らずにはいられない私は真っ先に階段を登ってみましたが、さしたる眺めは得られませんでした。そのかわりこの休憩所にはなかなか充実した土産物屋が並び、特に真っ白のぬいぐるみやケーナ、サンポーニャ等の楽器は注目の的。さらに、本物のリャマやアルパカがぞろぞろと出てきて、店員さんが渡してくれる草を差し出すとそれをむしゃむしゃと食べてくれるので女性陣は大喜び。奥の建物の土間には白や茶色の可愛いモルモットがちょろちょろしていましたが、これがクスコのレストランで変わり果てた姿で出てきたクイなのだそうです。先にこれを見るとかわいそうで食べる気にはなれませんが、ぺルーの人たちは丸々と太ったクイを「うまそうだ」と眺めるのでしょう。

標高が上がるにつれてだんだん樹木が少なくなり、枯草色になったイチュと呼ばれる草が左右の緩やかな斜面を覆うようになってきました。ところどころにアルパカの群れが草を食み、その奥には雪をかぶった山も見えています。穏やかな地形は峡谷というより高原風になり、既に標高は4,000mを超えているのに、不思議に息苦しさを感じません。このまま魂が空と山とに吸い込まれていきそうで、心が落ち着いてきます。

ひと気のないアグアス・カリエンテス(温泉)を通過。してみると、このあたりには火山活動があるのか?そう言えば、上に見えている斜面には噴煙のようなものも上がっているし……などとぼんやり考えているうちに、ついにラ・ラヤ峠に到着しました。

この峠には道路だけでなく線路も通っており、下の方には駅舎も見えています。その向こうには雪を戴いたチンボーヤ山。峠の標高を示す標識のところで皆で記念撮影をして、あまり自分の写真を撮らない私もここは写真を撮ってもらいました。

ただ、デルフィーナさんの説明によれば10年前に比べると雪が少なくなっているそうで、温暖化の影響はこういうところでも見られるわけです。ともあれ、ここはクスコとティティカカ湖を結ぶ古くからの道の最高地点。かつてインカの皇帝とその軍隊もここを南進し、そして帰北したのでしょうし、ここを越えて物資を運ぶ商人の隊列もあったことでしょう。そうした歴史に思いを馳せると、この峠が神々しい場所に思えてきます。

そうはいっても、ここも今では観光スポット。バスが停まったところには土産物屋が並び、民族衣裳のおばさんやおじさんがあれこれ売っています。東南アジアのようなアグレッシブな売り込みはさほどなく、おおむね「買ってくれればラッキー」くらいの鷹揚さで我々が立ち寄るのを待っているのですが、中には突撃レポートを敢行して撃退される売り子もいますし、こちらがいるともいらないとも言っていないのに袋にぬいぐるみを詰めて「四つで10ドル」と押し付けてくる強者のおばちゃんもいたりします。向こうも生活がかかっているから……と思いながら、そのようにして押し付けられた手乗りサイズのアルパカのぬいぐるみを4頭も買いました。横には本物のアルパカ?の子供もいたのですが、さすがにこちらを買って帰るわけにはいきませんでした。

峠を越えると、草原にはたくさんのアルパカやリャマが放牧されており、これを管理する人のイチュ葺きのテントも見えたりします。放牧されているアルパカたちの数は非常に多く、また、ところどころに飼い主たちの小集落が点在していましたが、これは定住しているのか、それとも季節によって移動しているのかは不明。

ラ・ラヤ峠の北の川はウルバンバ川からアマゾンに流れ込んで大西洋につながっていますが、こちら側の川はティティカカ湖へ注ぎます。その川に沿うように走っていた道は、左右の山が徐々に遠ざかって谷筋が枯草色のなだらかな広がりを示すようになったところで、岩山の麓の町プカラ(標高3,550m)に入りました。時刻はほぼ正午ですが、食事はこの先のフリアカでとることになっているのでここではトイレ休憩だけで、ツアー会社の御用達らしい売店を奥に抜けたところのトイレは、バケツで水を流すタイプでした。売店にはどこかで見た妖しいマスクマンの人形がたくさん並んでいて、思わず「この店もアヤシい」と疑惑の目を向けましたが、ミネラルウォーターを買おうと二本とってレジのおばあさんに差し出したら「これはコン・ガス(炭酸入り)」と笑顔で注意してくれたので、「親切な店だ」とただちに認識を改めました。お値段は二本でsol/.3。私はソルの持ち合わせがないので、US$1で支払いました。

プカラから先、フリアカまでは路面が悪くなってバスが揺れるようになってきました。そして、人家が増えるとともに、至るところにアランとオヤンタの名前がペンキで大書されているのを見るようになりました。添乗員Sさんの話では、クスコからプカラまで続いていたきれいな舗装道路はフジモリ大統領の頃に整備されたものだそうで、フジモリ大統領は道路を整備したり村々に学校を建設したりと社会資本整備の面で功績があり、地方では今でも人気が高いのだそうです。しかし、そのフジモリ大統領は今回の大統領選に立候補を目指したものの、今は隣国チリで拘束中。デルフィーナさんは、アランとオヤンタのどちらがいい?との添乗員Sさんの質問にどちらも支持しない様子でしたが、強いてどちらかと言えば、と重ねて問われると「アランのときは食料不足になったりテロが横行したから、どっちかと言えばオヤンタ」という消極的な回答でした。

プカラから1時間弱で、フリアカの町(標高3,825m)に到着しました。ここはプーノ県の経済的な中心で、鉄筋ブロック造りの二〜三階建ての大きな建物が密集しています。道路には自動車も多く、また自転車の前に二人乗りのベンチのような座席をつないで押すチョロタクシーがどんどん割り込んできて活気に満ちています。この町のレストランでの昼食は、ティティカカ湖産のキングフィッシュがメインでした。この魚は、味も見た目も太刀魚に似た感じ。

フリアカからプーノへ向かう道もこれまでと似た景色ですが、プーノ県の経済の中心地と行政の中心地とを結ぶ道だけに往来が多いのでしょう、道の脇に投棄されたゴミが目立つようになって若干興醒め。しかし、30分もたたないうちにバスが乗り付けたシユスタニ遺跡は、そんなことなどただちに忘れさせてくれる本当に素晴らしい場所でした。バスが泊まった遺跡入口の駐車場は小さな湖に面していて、ここから湖に沿って緩やかに上がる道を進むと、左手の低い丘の上にガイドブックに出てくるきれいな切り石のチュルパ(墳墓)が見え、その下の道沿いにも野面積みのチュルパが間近に立っています。精緻な造りの上のチュルパがインカ時代のもので、石が不揃いな下のチュルパはデルフィーナさんの解説によればプレ・インカのプカラ文化。ここには他に、平らな揃いの石で組むコヤ文化のチュルパもあるということです。なお、プカラ文化というのは、文字通りプカラを中心に紀元前200年頃から紀元後200年頃まで栄えた文化。コヤ(コリャ)文化というのは、ティティカカ湖北西部にあった非アイマラ系王国のことを指してそう呼んでいるようです。手元のガイドブックには「チュウラホン文化から」という記述がありますが、デルフィーナさんは「それは違う」という見解。ちなみに、タワンティン・スウユの中でクスコの南を「コヤ・スウユ」と呼ぶのは先に紹介した通りです。

丘を回り込むようにして斜めの道を上がると、そこには背の低いストーンサークルのような石の円陣があり「インティワタナ」と標識に書いてありますが、本当は日時計ではなく太陽の神殿だった模様で、隣の円陣は月の神殿。入口の三段の階段は例によって地下・地上・天上を示しており、またこの真ん中に立つと自然のパワーを得られるそうなので、皆さん中央に立ってお日様に手を伸ばすポーズで写真に収まっていました。そして、先ほどの美しい石組みのチュルパはそこからすぐの場所にありました。このチュルパは実は半壊状態で、表側はきれいな円弧を描いていますが、裏は崩れて内部構造が見えるようになっています。それにしても予想外に大きくて、高さは12mあるといいますから、かなり地位の高い人の墳墓として造られたのでしょう。チュルパの石壁の上の方に、ヤモリのような生き物の浮彫りがあるのも面白く、また、例によって冬至の日の朝日が差し込むという穴がチュルパの下の方に四角い開口部を見せていました。このチュルパを造った人々は、太陽の再生の日の朝日を浴びることで、被葬者も転生できると考えたのでしょう。この丘の上に散らばっている大小のチュルパは思い思いの場所に、いずれもこの穴を東に向けて佇んでいて、それの姿を眺めているとなんだか悲しくなってくる光景でもあります。しかし、広い丘の上を進むと、突然目の前に先ほどの湖とは比べ物にならないほど大きな湖の広がり=ウマヨ湖が見えてきました。

ウマヨ湖の真ん中にテーブルのように平らな頂きを見せているウマヨ島には、政府の保護政策で70頭程のビクーニャが放牧されているそうですが、そうしたこととは関係なく、標高4,000mのこの静かな丘の上に渡る風に吹かれながら目の前の景色を見ていると、昔の人々がここにチュルパを立てた気持ちが理解できるような気がしてきました。ウマヨ湖に面した場所にも中小のチュルパがたくさん立っていて、その多くは数百年の時の流れの中に朽ち果てようとしているのですが、その中の一つの近くの地面をデルフィーナさんが指さすと、そこには陪葬者のものらしい骨の一部が石のようになって露出していました。無惨のようでもあり、しかしある意味幸福な葬られ方のようでもあり、叶うことなら自分もここで永遠の眠りにつきたい……という切ない気持ちになってきます。しかし、そんなしんみりとした感傷に勝手に浸っている私の耳に、添乗員Sさんのあっけらかんとした解説の声が響いてきました。

「皆さま、湖の対岸に見える山の上をご覧下さい!あちらにも墳墓遺構があることが最近わかりました。偉い人のお墓はこちら、一般ピープルはあちらです」

……私が葬られるとしたら、あちらですか。

とても感動的だったシユスタニ遺跡を後にして、バスはティティカカ湖畔へと走ります。湖に小さく突き出た岩山の上に建てられた豪華なリベルタドール・ラゴ・ティティカカは、サーヤもお泊まりになったという5ツ星ホテル。近代的な設備と抜群の立地で人気が高く、私が泊まった部屋からは湖の東側もよく見えて、明日はこの部屋から日の出を拝むこともできそうでした。

夕食のときの、ちょっとした笑い話。何人かがビールを注文したのですが、最初の一本を持ってきたハンサムなギャルソンは実に丁寧にそっとグラスに注いでくれて、これはきっと気圧の関係で(何しろここは富士山の頂上よりも高いのだから)特別な注ぎ方を教育されているのに違いない!と皆は大いに感心してしまいました。ところが、次に出てきたギャルソンはまったく無造作にビールを注いでさっさと行ってしまい、なんだ、最初の注ぎ方には大した意味はなかったのか、と一同がっくり。

冗談めかしてはいるものの、こういう話になるのもつまりは標高の高さ=空気の薄さが皆の心理や体調にそれだけ影響を及ぼしているからなのですが、翌日、その不安が現実のものとなってしまいました。