マンダレー - アマラプラ - ザガイン

2010/01/02

朝、ホテルのロビーで新聞を読んでいると、今期は観光産業の先行きが明るい、という記事が載っていました。マーマーさんが言う通り、日本を含む各国からの観光客がミャンマーに戻ってきているということなのでしょう。ついでにその新聞には、エーヤーワディー・デルタにある学校にサイクロン用のシェルターを作るために日本政府が581百万円を資金供与する旨が発表されたとの記事もありました。ミャンマーが中国の影響下にとりこまれてしまうのを防ぐため、日本政府も懸命という構図です。

さて、この日はマンダレーの南に位置するアマラプラとザガインへ行く日ですが、その前にマンダレー市街の南の方にあるマハムニ・パヤーに向かいました。予想した通り、朝っぱらから交差点はごったがえす車とバイクとでとてもスリリング!そんな中に、ボディに「行してください」と日本語(?)が記された車を見つけました。なんで意味不明な日本語を書いているの?とマーマーさんに聞くと、あれは日本からの輸入車だと自慢するためなのだそうです。言われてみれば同じことをチョチョルィンさんにも聞いたことがあったな。ただしマーマーさんの言によれば、自慢したがりはどちらかと言うとヤンゴン市民。マンダレー市民はおしゃべり好きで、ついでにモウラミャインは食いしん坊なのだそう。

ここも2度目の訪問となるマハムニ・パヤーは本尊のマハムニ仏を中央に置く仏塔で、この仏様はボードーパヤー王が18世紀にヤカイン地方から持ち帰ったもの。つまり戦利品です。2,400Kで金箔を買って仏様が乗る台座(女人禁制)に上がり、仏様の膝の辺りに貼っていたところ、お坊様が声を掛けてくれて金箔の貼り方&礼拝の仕方の指導をしてくれました。日本人は礼儀正しくて好きだ、みたいなことを英語で盛んに語り掛けて、さらに手相をみてくれたり別のところに案内してくれようとしたりしたのですが、こちらは先を急ぐ身。あいにくガイドと一緒で、次の予定も決まっているので、と言うと残念そうな顔をして解放してくれました。

とはいいつつそそくさと次へ向かうわけでは実はなく、香りのいい花を買ったり、自分の曜日の祠に水をあげたり、三蔵経のライブラリを見学したり。そしてマハムニ・パヤー名物のクメール青銅像にも対面しました。彼らも難儀な人生を過ごしてきていて、アンコール・ワットにいた彼らは1431年にアユタヤに持ち去られ、1564年にはモン族のバゴーへ、1600年にはヤカインへ、そして1784年にマハムニ仏と共にここマンダレーへと引っ越しを余儀なくされています。そんな苦労を重ねてきた像なのに、自分の悪いところと同じ場所をなでると良くなるという言い伝えを与えられてしまったために、皆にぺたぺた触られて妙にてかっている感じです。

ついで車で長駆、アマラプラへ向かいました。車中の話題は、マンダレーのお坊様はイスラム教徒とよく喧嘩をするという話。娘がイスラム教徒と結婚しようとすると、これに反対する親はお坊さんに娘を結婚させないようにしてくれと頼み、これを受けてお坊様は娘を説教したりヤンゴンなど遠くへ飛ばしたりするのだそうです。当のイスラム教徒とも揉めることがあるそうで、「でもさすがに暴力は使わないでしょう?」「棒で叩いたりします」「……」だそうです。

そんな話をしているうちに、マハーガンダーヨン僧院に到着しました。托鉢を終えた朝10時20分からのお坊様たちの食事タイムが見物のポイントで、屋外のボードにはその日の寄進者の名前が大きく書かれており、寺院側でも見物されることに積極的なのだそうです。

それにしても、お坊様たちは数えきれないくらい(実際は1,000人くらい)いて、大人だけでなく子供の僧侶も列を作っているのが微笑ましい感じです。ご飯が配り終わったところで食堂の中に入ってみると食卓の上には諸々の副菜があり、特に最も偉いお坊様のテーブル上の豪勢さは目を見張るばかりでした。しかし、僧侶の食事風景を観光客に開放するという発想がどこから出てきたのかは、謎です。

また、近くのウー・ベイン橋にも足を伸ばしました。マンダレーが都として定まるまで、その南のインワとこのアマラプラがコンバウン朝の首都の地位を分け合っていましたが、インワが地震によって打撃を受け放棄された後、その旧王宮で用いられていたチーク材をアマラプラに運んで作ったのがこの橋です。タウンタマン湖にかかるこの橋は対岸の寺院への近道になっており、乾季なので湖面の水位は下がっていましたが、ボートで漁をする夫婦の姿なども見られてのどかな雰囲気は初めてここを訪れた9年前と同じでした。マーマーさんが風邪気味の様子を示していたこともあって、今回も橋を途中まで渡ったところで引き返しましたが、一度は対岸まで渡りきってみたいものです。

続いてザガインへ。ここも一時的に王都となったことがある地ですが、それよりも一大宗教センターとなっているザガインヒルが見どころです。ザガインヒルは、その名の通り一つの小高い丘が丸ごと寺院によって覆い尽くされたような場所で、遠くから見てもたくさんの仏塔が丘の地形に従って建ち並んでいるのがわかります。といっても下から登ったら大変なので、車でくねくねと車道を登り、かなり展望が開けたところで車を下りて階段を上ると、そこには45体の仏像が並ぶウーミントンゼー・パヤーでした。

お釈迦様が35歳で悟りを開いてから80歳で入滅するまでの45年間を表わしているのだそうで、背中の24本の軸をもつ光背も24種の経典を示しています。

さらに階段を登っていくと、眺めのよさそうな展望テラスが見えてきました。お疲れ気味のマーマーさんにはここで待ってもらうことにして、広がっていく展望を楽しみながら一人でどんどん登っていくと、途中の建物の中でお坊さん(?)が手招き。中に並んでいる仏像を示して、しゃあないなあ、せっかくだから見て行くかとひとしきり見て回った後ににっこり笑って「One dollar.」。やられた……。

気を取り直して階段登りを続けると、真っ青な空の下に緑の建物と小さな仏塔が並んでいる平坦地に出て、どうやらここが最も高い場所のようです。しかし木の間越しに窺うと、近いところにもう一つピークがあって、そちらには白や金の仏塔が並んでいる様子。尾根伝いに道も通じているようなので足を伸ばすことにしました。期待通りの雰囲気の良い小径を裸足で歩くこと5分ほど、階段の上に先ほどのピークと同じような小広いテラスがあり、美しい仏塔がいくつかと、仏足跡を納めた赤い小さな建物がこじんまりとかたまっていました。先ほどのピークもこちらも自分以外誰もいない静かな場所で、聞こえるのは時折思い出したように鳴る風鈴の音ばかり。なんだか極楽浄土にいるような気分です。

そんな具合に自分一人で30分ほども自由行動にしてしまったのでマーマーさんは心配したようですが無事に元の場所で落ち合うことができて、今度は日本人戦没者を祀るパゴダや慰霊碑が建ち並ぶ一角に移動しました。第2次世界大戦においてミャンマーで戦った兵士たちの姿は、たとえば以前読んだ古山高麗雄の『フーコン戦記』などにも記されていますが、このパゴダは第三十一師団(烈)歩兵第百三八聯隊の生存者が建てたもの。また、慰霊碑には烈のほか菊、鯨といった兵団文字符が見られました。ミャンマーの寺院群の一角にこうして外国人の慰霊碑を建てることを許容するミャンマー人の心の広さには、感じ入るばかりです。

ザガインヒルの中心寺院は、サンウーポンニャーシン・パヤー。例によって電飾つきのゴージャスな仏像と、その前に控えているカエルとウサギの組み合わせがユーモラスですが、ここは朝お供えをしようとすると必ず誰か(人ならぬ者?)が先にお供えをしているという奇瑞があるお寺なのだそうです。そして、仏塔の周囲の回廊の天井には、何やら奇怪なモチーフ(子牛から乳をもらう母牛とか、両当事者から賄賂をもらう裁判官とか)が極彩色で描かれた絵が並んでいて、どうやらそれぞれに何かの戒めを示している様子ですが、あまりにシュールなので全部見ていたら気が変になりそう。

変と言えば、この寺院の中にも軍関係の偉い人が奥さん同伴でここを訪問したときの写真がたくさん掲示されていましたが、仏の教えと軍政とは両立するのだろうか?他国の主権にかかわることなのであれこれ言えませんが……。ともあれ、テラスからエーヤーワディー川を見下ろして、ザガインヒル探訪は終了です。

その後、近くの尼僧院に立ち寄って勉強中の若い尼さんの様子を見物。剃髪して一所懸命お経を読んでいましたが、必ずしも一生仏門に入り続けるというものでもないらしく、世俗を「捨てる」という覚悟はそれほど問われないようです。ついで近所のSagain Hill Restaurantで中華料理(春巻きやあれこれの炒め物)の昼食をとりましたが、ここではミャンマービールをいただきました。どちらかというとミャンマービールはすっきりさっぱり、マンダレービールはコクがある感じ。

ザガインのもう一つの見どころは、カウンムードー・パヤーです。卵形の白い仏塔はインドネシアのマハーゼディ・パゴダを模しており、17世紀半ばのターロン王のもとで12年間をかけて建造されたものだそう。中にはエメラルドの鉢と仏舎利が納められていますが、それよりも周囲に敷き詰められた大理石の敷石がきれいで、周囲にはタナカの売店が並んでいました。もっとも、マーマーさんによればバガンの対岸の町でとれるタナカが香りもよく最上級なのだそう。

また、仏塔の壁にはぐるりと祠のように穴が開いていて、その一つ一つに小さな仏像が納められていますが、境内と仏塔の壁面の間にはこれまた真っ白な石柱がぎっしりと立ち並んでいて、その石柱に開けられた穴を覗き込むと壁面の仏様が拝める仕掛けです。ところが喜んで穴を覗きながら歩き回っているうちに方向を見失い、マーマーさんと2人で境内を2周もするハメになってしまいました。

そしてこれが、対岸から見たザガインヒルの全景です。

マンダレーに戻る途中で、私の希望で人形を売っている店に立ち寄ってもらいました。ミャンマーと言えば人形劇が有名なので、旅のお土産にとけっこう立派なものを4体100USドルで購入しました……が、帰国後にそのうちの1体が受け取りを拒否された顛末は〔こちら〕。さて、王宮の横を通っていよいよこの日最後の目的地であるマンダレーヒルに到着です。お出迎えは2体のライオンの像=チンテーヂーナッカ。

参道を地道に上がってもいいのですが、我々は忙しいツーリストなので文明の利器を使います。しかし、素足でエスカレーターに乗るというのはなんとなく変な気持ち。そのまま苦労もなく最上階のテラスに上がると、傾いた日がマンダレーの平原に斜光を投げかけているところでした。

最上階の中央にあるスタンピー・パヤーは、もとは1052年にバガン朝のアノーヤターが建立したと言いますから、相当に古いものです。現在の建物はコンバウン朝のときに増改築されたものですが、中には願い事がかなう仏像が納められています。

ここでもお祈りをして、ついでに2匹の蛇(ムイヂーナッカ)の像にも挨拶をしてから、テラスでまったりと日没を待ちました。手持ち無沙汰に回りを見ていると若い僧侶が盛んに外国人に声を掛けていましたが、これはどうやら英会話の練習の模様。そうこうしているうちに、エーヤーワディー川の向こうの山にしずしずと夕日が沈んでいき、マンダレーの町も夕闇に沈み始めました。

今日一日の観光を終えて後は食事を残すだけですが、ここのところ食べ過ぎの感があったので、この日の夜は軽く果物くらいを買ってホテルの部屋で食べることにしました。そこで果物屋に向かう前に、マーマーさんが「ちょっと買い物」と立ち寄ったのは、ミャンマーでも有名なお菓子屋さん「Myint Myint Khin」です。私もあれこれ試食してみましたが、餅米を使ったゼリー状のお菓子などは大変グッドでした。ただ、あまり日持ちしないようだったので、お土産にするのは断念しました。

その後果物屋に入りましたが、おいしそうに見えるりんごは中国製で農薬を使い過ぎていることが問題になっているそうなので、タイの葡萄とネーブルとを買い求めました。値段は重さに比例しますが、秤の重りは使い切った後の電池、というのが何とも素朴です。ホテルに戻って部屋で食べてみると、どちらもおいしく食べられました。