テオティワカン
2008/12/27
今日はメキシコシティ周辺の観光の日です。ナチョという名前のガイドがホテルまで迎えに来てくれて、彼のミニバスに乗り込んでみれば日本人ばかり11人。しかも、女性2人組が1組いる他はみなカップルでした。当たり前と言えば当たり前ですが、ちょっと寂しい……。
ともあれ、最初に立ち寄ったのは三文化広場(La Plaza de Tres Culturas)です。奥に見えているのは16世紀の教会、その前にアステカ時代の遺跡(トラテロルコ)、そしてその周りを現代建築が囲んでいるので三文化というわけですが、これと言って目を惹くものがあるわけではなく、ただの石組みと芝生の広場としか見えません。よって我々も中には入らず柵の外から見るだけ。ただし、ここがテノチティトラン攻防戦のクライマックスの戦場であったことをあらかじめ知っていれば、もう少し感慨深く眺められたことでしょう。
続いて市内を北へ移動してグアダルーペ寺院。黒い髪と褐色の肌を持つ「グアダルーペの聖母」を祀る教会で、修復工事の足場に囲まれたバロックスタイルの旧聖堂(1709年建造)の隣にモダンな新聖堂(1976年建造)がてっぺんのティアラからゆったりとマントを広げた姿を見せています。広い空間を擁する内部ではミサが始まる直前で、信者の邪魔にならない範囲で写真も撮れました。また、奥の祭壇の下を通る通路からは頭上にグアダルーペの聖母を描いた絵を見上げることができて、信者の皆さんもぞろぞろと行列を作って聖母を拝んでいました。この聖母についてナチョは、アステカの地母神トナンツィンとマリアを習合させることでキリスト教布教を推進する意図があったのだと説明していました。
日が上がって急速に暑くなってきたところで、いよいよ本日のメインイベント、テオティワカンに向かいます。
テオティワカンは、紀元前200年頃から紀元後700年頃まで今のメキシコシティの北東に発展した、巨大なピラミッドを持つ宗教都市です。広大な場所に南北に走る中心街路を持ち、その北端や左右にピラミッドや神殿を建てて、最盛期には20万人以上の人口を擁していたそうですが、その名前は廃墟となったこの都市を見た後世のアステカ人たちの言葉で「神々の都市」を意味しており、当のテオティワカン人たちが自分たちのことを呼んだ名前ではありません。紀元後4世紀頃にテオティワカンがマヤ世界に大きな影響を与えたことはグアテマラ旅行の記録の中でも触れましたが、その政治的・文化的影響はメキシコを東進して実にホンジュラスにまで及んでいたことになります。テオティワカンの衰退の理由について、ガイドのナチョは「人口増加とこれに伴う森林破壊」と説明していましたが、北方民族の侵入を理由の一つに挙げる説もあります。実際はそれらの複合した理由によるのでしょうが、これだけの大きな都市がそのまま放棄されているという事実に、生産ではなく消費の中心でしかない「都市」を維持し続けることの難しさを感じました。
Cuicuilco | Tezoyuka | 200 to 150 B.C. | |
proto-Teotihuacan | Patlachique | 150 to 0 B.C. | ピラミッド建設始まる |
Teotihuacan I | Tzacualli | 1 to 150 A.D. | ピラミッド完成 |
Teotihuacan II | Miccaotli | 150 to 200 A.D. | 都市計画定まる |
Tlamimilolpa | 200 to 450 A.D. | 経済・政治的優位確立 | |
Teotihuacan III | Xolalpan | 450 to 650 A.D. | |
Teotihuacan IV | Metepec | 650 to 750 A.D. | 過剰人口問題 |
proto-Coyotlatelco | Oxtoticpac | 750 to 800 A.D. | 内紛と外敵により都市放棄 |
Coyotlatelco | Xometla | 800 to 950 A.D. |
遺跡の中に入る前に、まずお約束のスーベニアショップに立ち寄りました。すると地元のお兄さんが出てきて、屋外で巨大な竜舌蘭の使い道についての講義をひとくさり。これがなかなかの見もので、樹液はお酒(お兄さん曰く「Mexican Viagra」)になりますし、樹皮を薄く剥げばプラスティックのような手触りの紙、繊維をとると糸、葉先の固く尖った部分は針になります。彼はまた、水に濡らすと金・赤・緑などなどさまざまな色に輝く鉱石(おなじみ黒曜石も)のデモンストレーションをしてくれた上で、これらの石を使った各種スーベニアをどうぞ!と勧めてくれました。
ひとしきりの商売タイムが終わった後でナチョと合流し、いよいよ遺跡へ向かいます。
遺跡の西北の入口から入ると、半地下の部屋が並ぶジャガーの宮殿を左に見て、すぐにケツァルパパロトルの宮殿に到着しました。ここは神官の住居だったそうですが、「ケツァル」はアステカの神「ケツァルコアトル=羽毛ある蛇」の名前に出てくるように鳥の名前、「パパロトル」は同じくナワトル語で「蝶」を意味します。そしてこの鳥の姿は、下の写真のように中庭の柱に水と火のシンボルと共に彫られており、その目には黒曜石が嵌めこまれています。
ケツァルパパロトルの宮殿から階段を降りたところが月の広場で、正面に月のピラミッドがそびえ、広場中央に低い基壇、周囲には12の小さな神殿が並び、それらがテオティワカンの建築様式であるタルー・タブレロの特徴をよく示しています。この様式はティカルの「失われた世界」でも見たもので、これがあるところはテオティワカンの政治的な影響を受けた可能性があることになります。
広場に出たところで絵葉書売りのおじさんが何やら実演中で、見れば白いカイガラムシがびっしり付いたウチワサボテンと何かの草を手にもっており、紙に色をつけて見せているのでした。草の方は茎の断面をなすりつけるだけで濃い黄色がつき、一方カイガラムシの方はコチニールと呼ばれる種類(ナワトル語ではノチェストリ=サボテンの血)で、このコチニールの雌を集めて乾燥させて深紅の染料として用いていたもの。スペイン統治下のメキシコからフィリピン経由で日本にもコチニール染の毛織物が輸入され、これが戦国時代の日本では猩々緋と呼ばれてもてはやされたのだそうです。
……といった前置きの後に、いよいよ月のピラミッドに登ってみました。底辺150m×130m、高さは42mもあり、現在はピラミッドの頂上まで登ることは禁じられていて前方部のテラス止まりとなるのですが、それでも正面(南方向)に広場と「死者の道」と呼ばれるメインストリートをどーんと見下ろし、遠くに太陽のピラミッドを臨むこのテラスからの眺めは素晴らしいものです。ピラミッド単体の巨大さもさることながら、こうして見るとこのテオティワカンの都市が全体として極めて計画的に、かつ莫大な労力を投じてつくられたものであることがよくわかります。
続いて、いったん車に戻って遺跡群の東側に回り、太陽のピラミッドに登りました。
こちらは底辺225m、高さは65mとテオティワカン最大の建築物で、5階層248段の長い階段を登りきると中央がわずかに隆起した広場のような頂上に到着します。かつては神殿が建てられていたという頂上には、気持ちの良い風と素晴らしい眺めが待っていました。ガイドブックによれば、この太陽のピラミッドには地下に自然の洞穴があり、1970年代の発掘でこの洞穴に通じるトンネルと部屋からさまざまな遺物が発見されたということですから、テオティワカンの創設にかかわる位置をこのピラミッドが占めているのかもしれません。ただし、実際の宗教儀礼はもっぱら月のピラミッドを中心に行われていたようです。
ところで、上の写真の下の方にもちらっと映っていますが、太陽のピラミッドの各テラスのところに何やら金属製の樋状のものが渡されていました。これはライトアップのための照明設備なのですが、帰国してからの新聞で、この設備が世界遺産を破壊しているのではないかと現地で問題になっているという記事を読みました。このこと以外にも、ピラミッドや宮殿が現代においてどこまで修復・再生の手を施されているかは不明です。
しばらく風に吹かれながらテオティワカンの全景を眺めているうちに、車に戻らなければならない時刻になってしまいました。本当はさらに南にあるケツァルコアトルの神殿にも足を伸ばしたかったのですが、仕方なくガイドのナチョの待つ出口へと向かいました。
テオティワカン見物の後、どこまで伝統的でどこからが現代的アレンジなのかわからない派手な装束のお兄さんとお姉さんの舞踊を見ながらランチをとって、渋滞の道をゆっくりとホテルへ帰還。旅の最初のイベントとしては、悪くない一日でした。