ティカル

2008/01/02

この日は、中部マヤ最大の都市ティカルへのone day trip。言わば今回の旅のメインイベントです。

早朝5時15分にホテルでグスタヴォにピックアップしてもらい、空港へ。そこから一人で国内線に乗ってペテン低地のフローレス空港に向かいましたが、降り立ったときにはあいにくの雨。雨季はとっくに終わっているはずなのですが、これも地球温暖化の影響か?などと考えつつ、いかにも地方空港らしいこじんまりした建物の外に出たところで、迎えのTropical Toursの係員に声を掛けられ、そこで英語組とスペイン語組に分けられました。英語組は、私のほかにサンフランシスコから来た若いカップル(男の子はDavid Paich似、女の子の方は東洋系で松居直美似)とNY在住の日本人女性(化粧気がなく象の刺繍のバッグを持っていたのでてっきり中国系タイ人だと思い込み、彼女が日本語を話したときは一瞬びっくりしました)。空港からティカルの遺跡までのバンの中で自己紹介したガイドは、ハンサムなフリオ・バスケス。英語はネイティブではないのでうまく通じないことがあったらご容赦下さい、と最初に挨拶がありましたが、その挨拶自体実に流暢で、どうひいき目に見てもグスタヴォの英語よりずっと上手です。ただ、発音はわかりやすいのですがとてもテンポが早く、正直私のヒアリング力ではちょっと辛いものがありました。ちゃんと聞き取れるのが五割、そこを予備知識で補って理解度七割といった感じ。

遺跡の入口には、売店なども備えた立派なエントランス施設があり、ティカル全景の巨大な模型がでんと鎮座していました。まずはそこでティカル遺跡の概要を頭に入れてから、幸い雨が上がった道を奥へと進んでいくと、まず現れるのが樹齢750年という見上げるばかりのセイバの木。と言っても、ティカルが衰退したのはコパンやキリグアと同様に9世紀なので、この木はティカルの全盛期を目撃してはいないわけです。

紀元前900年頃に人が住み着いたティカルに王朝が生まれたのは、先古典期の紀元1世紀頃。そして西暦378年、テオティワカンの武将シヤフ・カックがティカルに「到着」し、先住のティカル王を処刑すると、テオティワカンの王「投槍フクロウ」の息子を迎えて新たなティカルの王にしました。メキシコ中央高原のテオティワカンは紀元前後から発展を始め、8世紀の崩壊までの間、メソアメリカ一帯に政治的・文化的影響を及ぼした巨大国家で、そのテオティワカンとの密接な関係のもとに、古典期マヤ世界における優越王国としてのティカルの歴史が始まります。しかし、6世紀から7世紀にかけてもう一つの優越王国カラクムルとの緊張関係の中でたびたび敗北を経験するなど、ティカルの歴史は実際は波瀾万丈だったようです。ようやく695年に、ティカル王ハサウ・チャン・カウィール1世がカラクムルを破って対立関係に終止符を打ったことによって、ティカルはその全盛期を迎えます。現在見られる多彩な高層建築物が林立する景観は、おおむねこのカラクムル打倒以降のもので、この頃のティカルの人口は6万人にも達していたそうです。

我々は、フリオの導くままに熱帯の森の中を進みました。もちろん、歩きながらもフリオはいろいろな話を早口でしてくれます。マヤの人々のルーツについてのベーリング海経由説とポリネシア〜南米由来説、メソアメリカの時代区分の話など、たいへんアカデミック。かと思うと、かつてはティカルの地面を覆っていた漆喰の製法(石灰石を粉にして灰と水を混ぜる)の説明の際に地面に露出した石灰を傘の先でぐりぐりやってNY女史から「それって遺跡の一部では?」とツッこまれ、逆にナオミが緑色のきれいな柔らかい石を見つけて「これは何(もしやJade)?」と訊いたところ「石灰石に苔がついただけ」と身もふたもない返事をして、そのたびに一同は笑いに包まれました。そのうち不意に目の前の一段高いところに、背の高い神殿が現れました。I号神殿の後ろ姿です。

スロープを登ってI号神殿の左手を通り、芝生に覆われた広場に出ました。ここがグラン・プラサで、四方を以下の建造物群に囲まれています。

  • 東側=I号神殿:高さ51m、実に均整のとれたピラミダルな神殿で、マヤ建築の垂直指向をはっきりと示しています。大ジャガーの神殿とも呼ばれ、700年頃に建てられたもの。かつては階段を上まで登れましたが、今は登ることを禁じられています。
  • 西側=II号神殿:高さ38m、三層のどっしりしたフォルムでI号神殿と向かい合っています。こちらも正面の階段は登れませんが、側面に木製の階段がとりつけられており、観光客は競ってここを登ります。
  • 北側=北アクロポリス(下の写真):たくさんの建築物が複雑に配置され、見応えのある一角。古典期ティカルの政治の中心地。
  • 南側=中央アクロポリス:東西に階を重ねたマンション風(?)の大きな建造物。支配者層の家族が住んでいたのかもしれません。

これらの建造物の多くもコパンと同様、古い建造物を上から覆い隠すように新しい建造物が築かれており、埋もれた建造物の最も古いものは紀元前200年頃にまでさかのぼります。

グラン・プラサで30分ほどの自由時間を設定され、三々五々に周囲の建造物を見て回ることになりました。そこで、まずはII号神殿に登ってみることにしました。上から見下ろすグラン・プラサは箱庭のようで、王が人民に宗教的権威をアピールするには手狭だったに違いありません。このため、III〜VI号神殿はグラン・プラサから離れたところに次々と建てられることになったようです。

また、正面のI号神殿を眺めると、層を重ねて上へ伸びるピラミッド部と、その上に部屋、そして頂上に巨大な飾り屋根を乗せるというティカルの神殿の基本的な構成がよくわかりますが、それにしても昔の人々がどうやってあの重量級の飾り屋根を神殿頂上へ乗せられたのか不思議です。不思議と言えば、そもそもこれだけ巨大な都市を密林を切り拓いて作り上げられたこと自体が不思議。なぜなら、マヤ人は労力を提供する家畜を飼うこともなければ、金属器を使うことも知らなかった(つまり技術的には新石器時代のままだった)のですから。

次いで中央アクロポリスを見て回ることにしましたが、ここでは、石積みの見事さとは裏腹に、漆喰の壁にこびりついた黒黴の上に石で書き付けたのであろう落書きの多さにがっかりすることになりました。それでもざっと中央アクロポリスを見て回ったところで時計を見ると、早くも自由時間が終わろうとしています。仕方なく、北アクロポリスに足を踏み入れるのは諦めて集合場所に移動しました。

II号神殿の横からフリオの先導で森林の中の道を、かつては貯水池だったという大きな凹みを迂回しながら辿ると、これまた大きなV号神殿(高さ57m)が現れました。この神殿は、基壇の角が丸みを帯びているのが特徴で、フリオはテオティワカンの様式の影響があると説明していました。ところで、この神殿にはどこから登るのでしょうか。見ると正面の階段の右に上からロープが垂れていますが……まさかあれをよじ登るのか?

もちろんそんなことはなくて、階段の左側に恐ろしく急な木製階段が据え付けられており、頑張ってこれを登ると正面(北)にI号神殿や北アクロポリスが見えてよい眺め。このV号神殿も、ここから見えるI号神殿やII号神殿も700年前後に建てられたもので、これはちょうど上述のカラクムル打倒の直後ということになります。宿敵カラクムルを倒したことでティカルがいかに国力を充実できたかが、如実にわかります。

恐ろしく急な木製階段は、下るときにも後ろ向きにしか下れません。マヤ人たちの辞書には「高所恐怖症」という単語はなかったのでしょう。

密林の中には、まだ朽ちたままになった遺跡も散在しています。下の写真に見る「七つの神殿」(の一部)もそうしたものの一つ。

暗い木の間越しに南アクロポリスの高さのありそうな基壇を眺め、III号神殿(下の写真)をはるかに見上げ、そして「失われた世界」に足を踏み入れました。

「失われた世界」はティカル中心地の南西に位置する一角で、なぜこういう名前をつけられているのかは定かではありませんが、600年頃のピラミッドが2基建っています。そしてこれらの特徴は、あまり垂直指向を示さない安定した四角錐のフォルムにタルー・タブレロ(斜面の基壇(talud)と直線的で平坦な基壇(tablero)の組み合わせ)が顕著な、典型的なテオティワカンの様式であることです。

「失われた世界」からすぐで、IV号神殿の足元に到着。建造は741年、高さは70mで、マヤで最も高いピラミッドです。あいにく、修復工事用の鉄パイプに囲われて少々痛々しい姿ではありますが、これも木製の階段で上に登ってみれば、密林の上にI〜III号神殿が顔を覗かせ、「失われた世界」のピラミッドも見ることができました。どんよりした空の下、密林に呑み込まれそうな様子ではありますが、そこにかつてのティカルの栄光の証を見ることができて、感無量。今回の旅は、この景色を見ることが目的であったようなものです。

この神殿は東を向いていますから、晴れた朝ならグラン・プラサの建造物群の向こうに昇る太陽をここから拝むこともできるに違いありません。そして、1,200年前のティカルの王も、日の出のオレンジ色に染まる都市の景観を眺めながら、その永遠の繁栄を神に祈ったことでしょう。あるいは、既に見え始めていた崩壊の予兆に怯えながらだったかもしれませんが……。

小さなピラミッドと石碑が密集したコンプレッホQ(その真ん中で手を叩くと、四囲の建造物に反射して聞こえるのが面白い)を経由して、遺跡公園の中の草葺き屋根のレストランに入ったときには強い雨が降り始めていましたが、かろうじてほとんど濡れずにすみました。ここで昼食をとりながら、ゲスト同士あれこれとおしゃべり。話を聴いてみると、Davidとナオミは三週間かけて中米旅行中、それもマヤ遺跡三昧の旅なのだそうです。うらやましい。また、ナオミは日本にも来たことがあるそうで、京都は大好きだと言っていましたが、東洋系の風貌でも日本語が喋れないので苦労したそう。「あなたはスペイン語を話せる?」と訊かれたので「一つだけ知ってる。Cerveza, por favor!」とグラスを掲げたら「It's funny!!」と大ウケ。

この食事中に、NY女史が時間にゆとりを持たせるために帰りのタクシーを別に手配していることを知り、タクシー代をシェアすることを条件に相乗りさせていただくことをお願いしました。その上で、昼食を終えてレストランを出たところでフリオ他の皆さんと別れ、一人でグラン・プラサに戻って、先ほど時間の関係で見逃していた北アクロポリスの複雑に重なり合った建造物群をあちらこちらと登り歩き回りました。しかし、やはり時間が足りない!ここは、近隣に一泊してじっくりと歩きたいところです。

後ろ髪を引かれる思いでグラン・プラサに別れを告げ、途中ハナグマの大群に見送られながら遺跡公園の入口に戻って、NY女史と合流。フライトまで少しゆとりがあったので、運転手に頼んで空港の向こう側、ペテン・イツァ湖に浮かぶ小さなフローレス島を一周してもらいました。あとは観光客でごったがえす空港の中でフライトを待ち、すっかり暗くなった頃にグアテマラシティへ向かう機上の人となりました。