キリグア

2008/01/01

喧噪の一夜が明けて、今日はキリグアへ向かいます。ホテルのロビーで合流したグスタヴォは「昨夜はお酒も飲まずに早めに就寝した」と、自慢なんだか後悔なんだか。本当なら人一倍飲んで騒ぎたい方でしょうに。ともあれ、再び国境を越えてキリグアまでは2時間半のドライブで直線距離にすると50kmほどあり、マヤ時代の徒歩なら3日行程です。やがて車は開けた地形の中を走るようになり、いかにも鄙な風景の中になぜか豪壮な邸宅が建っているのが目につきました。ここからグスタヴォと私との間で、日グ両国のマフィア事情についての意見交換が延々と続いて……そして街道を右にそれ、バナナ畑の中を進むとそこに、キリグア遺跡がありました。

コパンの記事で書いたように、コパンはグアテマラ高地から北東に流れてカリブ海に注ぐモタグア川沿いの交易路と産物を支配することで繁栄しましたが、そのための衛星都市として西暦426年にコパンのヤシュ・クック・モの後見のもとに王朝が創始されたのがキリグアです。つまり、この年にティカルからやってきたヤシュ・クック・モは、コパン王に即位すると同時にキリグアにも拠点を確保したということになります。その後300年間続いた従属国家としてのキリグアの地位を変えたのは、コパンの最盛期に長期政権を築いた18ウサギ王の後見で即位したカック・ティリウ・チャン・ヨアート(燃える空・雷の神 / 在位724-785年)。若くして王となったカック・ティリウは宗主国コパンのみならず北方の大国カラクムルとも外交関係を持ちながら、やがて独自の紋章文字を持つようになり、738年、ついに18ウサギ王を捕らえて斬首してしまいます。こうしてコパンの支配から脱しモタグア川流域の交易を独占したカック・ティリウは、キリグアに巨大な儀礼広場を作り、アクロポリスや球戯場を整備し、746年から5年ごとに立派な石碑を立てました。いまキリグア遺跡の特徴をなしているのも、主としてこの時期に立てられた石碑群です。

遺跡公園の入口を入って最初に出会うのが、ステラA〜D、そしてこのソォモルフォ(獣形神)B(780年)です。ワニのような生き物の口から人の顔が覗いているのは、再生のイメージでしょうか。

また、ステラ類には王の姿や神聖文字(たとえばステラCには創世神話)が彫られており、コパンのそれに比べると彫りは浅いのですが、その代わり極めて洗練された美しさを感じます。

キリグアの遺跡は、コパンのような見事な建造物で見せるのではなく、かつて儀礼広場として使われていたであろう美しい芝生の広場に点在する石碑を一つ一つ丹念に見て回るところに楽しみがあります。中でもステラE(771年)は地上に出ている部分だけで7.6mに達し、マヤ地域で最も高いものです。

また、ジャガーの口からカック・ティリウの顔が覗くソォモルフォG(785年)や、ステラI(800年)の羽根飾りの細かい浮彫りも見逃せません。しかしステラK(805年)に至ると石碑のサイズは小さく、描かれた人物は怒ったような悲し気なような顔をしており、キリグアが早くも衰退を迎えていることが窺われます。この時代、キリグアの王はカック・ティリウの2代後のカック・ホル・チャン・ヨアート(通称「ヒスイ空」)になっていましたが、ステラKにはかつて仇敵であったコパンの第26代ヤシュ・パサフとともに暦にまつわる儀式を行ったことが記されています。斜陽の支配階層同士が手を携えて過去の栄光を取り戻そうとする最後の試み、といったニュアンスもあったのかもしれません。そうした努力も空しく、キリグアはコパンとともに、この9世紀前半に放棄されてしまいます。

ステラやソォモルフォを辿りながら広場を奥へ進んで行くと、幅広い階段が現れました。これがキリグアのアクロポリスですが、コパンのように400年もの時をかけて積み重ねたものではなく、せいぜい70年間の繁栄でしかなかったキリグアでは、雄大な建造物が林立するというところまではいかなかったようです。その右手前にはうっすらとした土の盛り上がりが2列並んでいて、グスタヴォはこれがかつての球戯場だと説明してくれました。彼の言によれば、コパンの18ウサギ王はここで球技に臨みましたが、あらかじめ酔い潰されていた上に、同行していたコパンの貴族の中にも18ウサギ王をよく思わない者がいたために試合に負け、そのために首を斬られたとのこと。実際のところ、18ウサギ王の最期の模様を伝える記録はないので真相は定かではない(コパン側では名誉の戦死とされている)のですが、在位が43年間にも及んだ18ウサギ王に対してコパン貴族層が必ずしも忠誠一辺倒ではなかったとしても不思議はないような気がしますし、18ウサギ王の死後コパンの政体が集団指導体制となったのも、このへんの事情を反映しているのかもしれません。

キリグアの見どころの最たるものが、上の写真のアルター&ソォモルフォP(795年)です。手前のアルター(祭壇)には炎の斧によって切り裂かれた大地の裂け目から「口から蛇を発する神」が顔をのぞかせた非常に緻密な図像が刻まれ、奥のソォモルフォには怪しい生き物の口の中に笏と盾をもった王の姿、また表面はさまざまな神像や文様、マヤ文字が隙間なく刻まれていて見応えがあります。

アクロポリスの階段を登ると、小さな広場を建物の基壇が囲み、石組みの建造物も残っていますが、そのつくりはコパンに比べて少々粗雑のような気がします。ちょっとがっかりしながら一通り眺め回した上で、元来た道を遺跡公園の入口へと引き返しました。

やはり、この遺跡の見どころはステラ、アルター、ソォモルフォの3点セットであるようです。ただし、キリグアの遺跡も他の遺跡と同様に全ての遺構が発掘・整備し尽くされているわけではありません。公園入口に向かう通路のすぐ脇にもその下に何らかの遺構が眠っているであろうマウンドが見られましたし、アクロポリスにしても本来はもっと広がりがあったのかもしれません。

結局のところ、9世紀のマヤ世界にいったい何が起こったのか?グアテマラシティを目指す車の中での会話は、もっぱらこの点に集中しました。複数の都市が一斉に放棄されたということは、疫病が蔓延したんじゃないのか?という私の説に対して、グスタヴォは

  • ティカルとカラクムルの対立の余波による同盟都市群の政体の動揺
  • 森林伐採や気候変動による乾燥化
  • 火山活動による交易路の変更
  • 社会・文化が変わって単に記録をとらなくなった

といったいくつかの仮説をあげ、それでも決定打がないのだと話してくれました。そんな話をしながらグスタヴォが運転する車は、正月休暇帰りの車で混み合う幹線道路を、グアテマラシティを目指して高度を上げていきました。