塾長の渡航記録

塾長の渡航記録

私=juqchoの海外旅行の記録集。遺跡の旅と山の旅、それに諸々の物見遊山。

モンテ・アルバン

2008/12/28

今日はオアハカへ移動する日ですが、フライトは昼前なので、日の出前にホテルの外に出てソカロ(中央広場)まで歩いてみました。まだ暗く人気のない異国の道を地図を頼りに歩くのは少々緊張しましたが、辻々に警官が立っていてくれて心強い思いをしました。メインストリートのレフォルマ通りからアーチ型の革命記念塔を目印にその反対側へ斜めに入って、アラメダ公園の前を通って突き当たりの広場がソカロ。中央に巨大なクリスマスツリーを立てて、その北側に聳えているのがメトロポリタン・カテドラル、その奥にあるのがテンプロ・マヨールです。

テンプロ・マヨールはアステカ王国の首都テノチティトランの中央神殿跡だとガイドブックに書かれていたので楽しみにしていたのですが、実際には薄暗くひんやりした空気の中にただの石組みが沈んでいるだけでした。もっと明るければ多少は目を引く遺物を見ることもできたのかもしれませんが、それにしてもこのこじんまりした遺構には、かつてのテノチティトランの複合神殿の壮麗な姿(その模型を私は東京での「インカ・マヤ・アステカ展」で見たことがあります)を偲ぶよすがもありません。そのことは、昨日見た三文化広場にしろこのテンプロ・マヨールにしろ、いかにスペインがアステカの都市を徹底的に破壊したかを物語っているかのようでもあります。

ホテルに戻って朝食をとり、空港に移動してタガワ・アオキペアとはここでお別れです。非常に寒い空港のロビーで搭乗時刻を待って、座席が横3列しかない小さな飛行機に乗り込み、予定より50分遅れの11時45分にテイクオフしました。

雪をかぶり白い煙を吐いている山並みを左の窓から眺めながらの1時間のフライトで、メキシコシティから東南東に350km余り離れた高原(標高1550m)の町、オアハカに到着しました。出迎えてくれたのはオアハカのエージェンシーのシルビアで、坂の多い町を彼女の運転する車でホテルに向かいましたが、寒々しかったメキシコシティとは打って変わって日差しがきつく白い壁がまぶしいほどです。肩掛けのバッグ一つの身軽な姿の私にシルビアは「荷物はそれだけ?旅慣れているわね〜」と感心した様子でしたが、本当はものぐさで荷物を切り詰めているだけだとは白状しませんでした。

コロニアル調のすてきな雰囲気のCasa Conzatiにチェックインしたところ、15時まではしばし休憩と告げられました。えっ、それだと見物時間が足りなくなるんじゃないのか?とは思いましたが、実はこの日は少し離れたミトラ遺跡まで行くはずだったのに、飛行機が遅れて予定が狂ったために急遽行程を変更したようです。とりあえずホテルの部屋で軽く昼寝をしながら時間をつぶしてから、時間通りにやってきたガイドのペドロとロビーで合流し、彼の運転する車でオアハカ近郊の山上都市モンテ・アルバンに向かいました。

モンテ・アルバンは紀元前1400年頃からこの盆地に大規模な集落を築いたサポテカ人の祭祀センターで、オアハカ盆地の北・南・東の谷が鼎立し抗争する中で北の谷の勢力サン=ホセ=モゴテが盆地中央の山上に防御機能を持つ都市を築いたのが起こりです。それは紀元前500年頃のことと言いますからマヤ先古典期の初め頃であり、かつテオティワカンよりも古い時代です。その後、勃興してきたテオティワカンとの政治的・文化的な交流を経て、最盛期の紀元500-750年頃には人口は2万5000人に達し、この盆地全体の人口の3分の1がモンテ・アルバンに集中したとされますが、やがて衰退して盆地南部のハリエサや東の谷のミトラに人口の中心が移り、さらには盆地全体がミシュテカ人の支配下に入っていったそうです。

▼Chronology of Monte Alban
Monte Alban I Early Late Formative 500 to 200 B.C.
Monte Alban I Late   200 to 100 B.C.
Monte Alban II   100 to 200 A.D.
Monte Alban III A Early Classic 200 to 500 A.D.
Monte Alban III B Late Classic 500 to 750 A.D.
Monte Alban IV Early post-Classic 750 to 950 A.D.
Monte Alban V Late post-Classic 950 to 1521 A.D.

私と、なぜかジモティっぽいカップルを乗せて、ペドロが運転する車はオアハカ盆地の底から標高差400mで盛り上がっている山の上へ、よく整備された道路をゆるやかにカーブを切りながら高度を上げていきました。遺跡の前に着いて最初に案内されたのはゲートの外にある第7号墳墓ですが、これはサポテカ人がモンテ・アルバンを放棄してはるか後世の14-15世紀にここを埋葬場所として利用していたミシュテカ人が作ったもので、ここから発見された金銀翡翠の財宝類はオアハカ文化博物館で見ることができるそうです。

ついで賑やかな土産物の屋台の前を通ってゲートの中に入り、南北に細長い山の上の平坦地を北東から入って西側へ回り込むように進みましたが、全体が柔らかい草に覆われていてあまり背の高くない灌木がところどころに生えている中を、緩やかな起伏の道が南へと導いてくれます。その中にあった灌木に咲く花の色が白く、これがモンテ・アルバン(白い山)の名前の由来だとペドロは話してくれました。

実は、今回の旅は後半のマヤの遺跡にポイントがあってモンテ・アルバンはほとんどノーチェックだったのですが、こうして歩いてみると山上に広がるさまざまな建造物群には素晴らしい存在感があって、歩くうちにどんどん引き込まれていきました。

北の大基壇を回り込んだところにあるシステマIV(IIIB-IV期)の手前(北側)に立つステラ18は、その形から容易に想像がつくように、長辺の方向に影が伸びたときに正午を示す日時計となっています。

そして、タルー・タブレロの建築様式を示すシステマIVの前を通って広場の西寄りを南へ進むと、今度は「踊る人々のピラミッド」です。これはモンテ・アルバンの建造物の中でも最古(I期)の部類に入る巨大な構造で、その下部の開口部から中に入ると、壁面に踊る人のレリーフが貼られています。

外にもたくさんのレリーフ(ただしレプリカ)が並べられており、そこにもオルメカ的な、つまりネグロイド的な特徴を持つ人物像が浅く浮彫りにされていました。これらの人物は何も楽しくて踊っているのではなく、どうやら拷問を受けて死んでいった首長たちである模様で、ほとんどが裸で恥ずかしい格好をさせられています。

その奥(南側)にはシステマMが建っていて、これはシステマIVと双子の建造物です。そして南の突き当たりには大階段を持つ南の大基壇があり、そこに登るのかな?と期待していたら、ペドロは広場の中央南寄りにある天文台(II期)に近づいて、その説明を始めました。真上から見ると五角形の将棋の駒を45度斜めに置いたような形の非常に特徴的な構造物であるこの建物(下の写真)は、その上から広場の東側にある建造物Pの方向を見ると、その先にカペラ(馭者座α星)が光っているという位置関係にあります。また、この天文台の壁にはたくさんの平べったい石板がはめ込まれていて、そこには頭を下にひっくり返されたような人物像などが浮彫りにされており、これらもモンテ・アルバンが周辺を征服した事績を示すためのものと考えられています。

それにしても、南の大基壇が気になる……のにお構いなしに、ペドロは広場の東側を北上しながら、複雑な平面パターンを示す小振りの宮殿や水に関する儀式を行った礼拝所(II期)の説明を続けました。

さらに、礼拝所の東にこれとセットになって建っている建造物P(III期)は、正面の大階段の中腹にある地下室の上に垂直坑(シャフト)があって、5月と8月の初旬に太陽が天頂を通ると光が坑道からその部屋に落ちるようになっている、という話を聞いたところで、ふと見ると人々がぞろぞろと帰り始めているのに気が付きました。えっ!もしかしてもう閉園の時間?あわてた私はペドロの説明を遮って「南の大基壇に登ってみたいんだけど」と声を掛けてみたところ、「時間がないけれど、let's try!!」と言ってくれました。これを聞いて勇んで脱兎のごとく駆け出した私でしたが、そのとき天文台の陰から現れた係員たちがホイッスルを吹きながら近づいてきて制止されてしまいました。そんな〜。

がっかりしてペドロたちのもとに戻った私をジモティ2人が笑いながら慰めてくれましたが、もっと早く言えばよかった、後で自由時間をもらえるものと思い込んだ自分が浅はかだった……と後悔しきり。いつの間にか誰もいなくなった広場を未練たらたら眺めてから、モンテ・アルバンを後にしました。

ホテルに戻っての夕食は、気分を変えようとオアハカ料理を注文することにしました。まずはレタスを敷いた上にアボカドとツナ、タマネギ、豆、オリーブ。これは普通においしく、特にオアハカ風というわけではなさそう。それから「オアハカ風タマレス」というのを食しました("Corn dough pie filled with chicken and mole sauce"という解説がメニューにありました)が、こちらはバナナの葉でトウモロコシの粉を練ったものをチキンやモレ(チョコレート等のソース)とともに蒸したもののようで、甘味やらピリ辛味やらが混在するとりとめのない味。それに日本人の好みからするとちょっとパサついていて、しかもtoo much。そんなわけで、意気込みに比していまいちなディナーでした。

部屋に戻ったら早めに就寝したのですが、考えてみるとモンテ・アルバンの遺跡では南北両方ともの大基壇の上に立っていないわけで、これはどうしても自分でもう一度行って最高所からの眺めを確認しないと気が済みません。起き出してガイドブックを確認してみると、ホテルが建つ市内からモンテ・アルバンまではタクシーで片道30分で、開園は午前8時。明日の予定であるミトラ行きのガイドが迎えに来るのは午前10時となっていますから、1時間くらいは遺跡内を見て歩ける計算です。よし、それなら明日フロントでタクシーを手配してもらおうと行程をメモして、翌朝に備えました。