トレ・チーメ チマ・グランデ「Spigolo Dibona」

2022/08/04

4時半にホテルのロビーに降りると、早出する我々のためにテーブル上にパンとコーヒーのポットが置かれており、そそくさと朝食をすませて出発して車で20分もかからずに起点となるRifugio Auronzo近くの駐車スペースに到着しました。

ドロミテを代表する岩峰のひとつトレ・チーメTre Cime di Lavaredo(ドイツ語名「ドライ・チンネンDrei Zinnen」)はその名の通り三つの岩峰の集合体で、Rifugio Auronzoに近い方(西側)から東に向かって順にCima Ovest、Cima Grande、Cima Piccolaですが、Cima PiccolaはさらにPunta FridaとCima Piccolissimaを加えた三つの岩峰の集合になっているというちょっと複雑な形状で、これらのいずれにも多くのクライミングルートが設定されています。

トレ・チーメの南面を水平にトラバースする道を進んで教会の前を通過し、Cima Piccolaの東側に建つRefugio Lavaredoで水を調達。さらにCima Piccolaの東からぐるっと北側に回り込んで、トレ・チーメを東から縦一列に眺める位置から一般道を離れて踏み跡を辿るようになりました。

手前から2番目の岩峰が主峰チマ・グランデで、その右側の垂直の壁はガストン・レビュファの『星と嵐』でも取り上げられたチマ・グランデ北壁です。今日登る「Spigolo Dibona」は初登が1909年、この北壁と手前の東壁の境目をなす北東稜近くからスタートし、基本的には東壁の中を北東稜から離れないようにして頂上手前の環状テラスまでを13ピッチで登るものです。こうして見るとスケール感が伝わりませんが、あの北壁は高距500mほどもあり、山頂の標高は2999mです。ドロミテの岩峰前半に言えることですが、ルートの長さも標高の高さも見た目に騙されると痛い目をみることになります。

テオの早出作戦はどうやらうまくいったようで、我々より前に離陸しているのは1組だけ。岩壁の足元で準備しているうちに後続パーティーが2組ほどやってきて、私の登攀開始の際にはカタルーニャ(スペイン)から来たという若い男女ペアがグータッチで送り出してくれました。

登り始めてしばらくは壁が日陰の中にあるため、少々肌寒さを感じながら高さを上げていきます。

ホールドは比較的しっかりしており、グレードも最高でもIV+なので問題となるところはありません。フォローで登るならこれほど気分の良いルートはなかなかありません。

途中でテオの知り合いのローカルガイドが引率するパーティーを抜かし、そこから先は我々がルート全体の先頭を進むようになりました。しかし、このことは同時にルートファインディングの責任が発生するということを意味します。

もとよりこのルートに残置ピンが少ない(というよりほとんどない)ことはわかっているので、ナチュラルプロテクションを駆使しながらロープを伸ばしていきますが、我々、我々が抜かしたローカルガイドパーティー、そして離陸時にグータッチで送り出してくれたカタルーニャパーティーが数少ない残置ピンを分け合うようになってきました。

残置ピンが見当たらないところではカムやナッツも駆使して支点を構築しつつピッチを重ねて行くうちに、背後のCima Piccolaは眼下に遠くなっていきます。

このルートは日本でアルパインクライミングを実践しているクライマーなら技術的な困難を感じることはないはずですが、その難しさはひとえにルートファインディングにありそうです。中間支点は期待できないし、確保支点すら自力で構築するつもりで臨む必要があり、しかも正しいルートを登っている間は比較的安定している岩も少し外れたとたんに本来の(?)脆さを発揮してきます。下手に腕に自信がある人が弱点を丹念に探さずに登ろうとすると、ルートを外してアンサウンド地獄にハマることは必定で、技術的に易しいルートが必ずしも安全であるとは限らないというクライミングにありがちな逆説の見本のようなルートでした。

特に最終ピッチの脆さはひどい。傾斜が落ちているだけにロープの動きだけで頻繁に落石を誘発し、まるで日本のアルパインを登っているようです。

私もローカルガイドも一発ずつくらってしまいましたが、そのことを私の口から告げられたテオはローカルガイドが登ってくるのを待って彼が無傷であることを確認してから、ショートロープで私をつないで環状テラスをノーマルルートへと向かいました。

環状テラスの途中から振り返った「Spigolo Dibona」の最終ピッチ。途中で抜かさせてくれたローカルガイドパーティーと、その足元の斜面の脆さがはっきり映っています。そして上で確保しているローカルガイドの立っている位置に水平に続いているのが環状テラスです。

環状テラスを辿って南側に回り込み、III級程度のちょっと長い登りの末に到着した山頂には、お約束の十字架が立っていました。最後は体力的に厳しいものを感じながらではありましたが、ドロミテのシンボルと言っても良さそうなこのピークに立つことができて大満足です。

別ルートから登ってきていたポーランドからの男女パーティーとしばしウクライナ情勢について歓談した後、ノーマルルートからの下山にかかりました。

環状テラスまでの下降の途中でまずローカルガイドパーティー、ついでカタルーニャパーティーとすれ違い、お互いの健闘と無事を讃え合いました。後は懸垂下降やクライムダウンを織り交ぜてCima GrandeとCima Piccolaの間のルンゼに入っていくはずだったのですが……。

下っていく途中で後ろから追いついてきていたローカルガイドから声が掛かりました。どうやらローカルガイドが開拓した新しい下降路があるようです。

その助言に従って少し登り返して鞍部をそれまでとは反対にCima Grandeの南面側に下り、その後は高度を少しずつ下げながらCima Grandeの南壁を西へとトラバース。そのままCima Ovestとの間のガリーに通じる湿っぽいルンゼへと入っていきました。このルートはガイドブックには書かれていませんが、踏み跡やケルンが明瞭な上に必要な場所には懸垂下降のための支点も設置されていて、下降路として確立していることが窺えました。

ついによく整備された登山道(トポに「Approach to Cima Grande West Face」とある道)に行き当たって緊張が解かれ、ここで先ほどから行き先を教えてくれていたローカルガイドや別ルートから降りてきていたらしい別のローカルガイドと合流しました。イタリア人ガイドが3人寄るとかしましい……という諺はないと思いますが、実際には3人のイタリア人がしきりに足を止めてはおしゃべりをするのでこちらは辟易。それというのもこの猛暑のために朝Refugio Lavaredoで調達した水がずいぶん前からなくなっていたからで、やっとRifugio Auronzoに降り着いたときには真っ先にコカコーラを買い求めました。

その後、3人のガイドたちはMisurina湖畔のバーで飲み、コルティーナ・ダンペッツォのクライミングジムに併設されたバーでまた飲みといつ果てるともない歓談が続きます。これは付き合いきれんと思った私はジムの中を見学してみましたが、この高さには仰天しました。

やがてしびれを切らせた私はそろそろ帰ろうぜ、と促してテオの重い腰をどうにか上げさせて、コルティーナ・ダンペッツォから局地的な雨の降る峠越えでカンピテッロ・ディ・ファッサを目指しました。