塾長の渡航記録

塾長の渡航記録

私=juqchoの海外旅行の記録集。遺跡の旅と山の旅、それに諸々の物見遊山。

ラサ (2) - セラ・ゴンパ / ジョカン

2014/12/31 (2)

午後はまず、ラサの北の山の麓にあるセラ・ゴンパསེ་ར་へ向かいました。ここはゲルク派の六大寺院の一つで、15世紀の創建です。最盛期には5,000人を超える僧侶がいたものの、チベット動乱を契機として破壊を受けたために多くの僧侶がインドへ亡命し、そこで寺院を建立したそう。今日訪れたこちらは、チベットに残留した僧が1980年代になって再興したものです。

背後に乾燥した山を置いて、門をくぐるとその向こうに堂宇の数々が連なります。門の上にはチベットの寺院に付き物の法輪と鹿の置物が置かれています。

門の装飾が青い空に映えてとても綺麗です。

奥に進むと何やら行列ができているのが見えてきましたが、これは子供の息災をもたらす魔除けの呪いをしてもらうための行列であるようです。そういえば、寺の中にはバターランプの煤で鼻の頭を黒くした子供たちの姿が目立ちました。

その行列の間を抜けさせてもらって入った建物の中に、この砂曼荼羅がありました。上は「密集坛城」、下は「大威徳金剛坛城」です。

砂曼荼羅は長い時間をかけて作成され、完成したらすぐに壊されるのが常ですが、このように保存される場合もときにあるのだそう。こうした極度の集中と根気とを要する作業は、それも修行の内なのかもしれませんが、私にはまず無理……。

これはセラ・ゴンパの中心となる大集会殿です。中にはツォンカパやその弟子で当寺院の開祖であるサキャ・イェシェの像があり、明の永楽帝から贈られたという大蔵経が納められています。日本人・河口慧海も、ここでチベット仏教を学んだのかもしれません。

しかしセラ・ゴンパの見どころは、実は建物や仏像ではありません。

学堂の前の広場の周囲の通路に参拝者や観光客が席を占めて待つ内に、定刻になってぞろぞろと赤い衣の僧侶たちが登場しました。若い僧侶もいれば立派な帽子をかぶった年配の僧侶もおり、座る場所が決まっているのかどうかは定かではありませんがなんとなくそれぞれの定位置につくと、おもむろに問答が始まりました。問答は立っている僧侶が質問者で、何やら質問をぶつけては回答者の前に振り下ろすようにして手を叩き、これに回答者が一言二言返答して次の質問に移るということの繰り返し。全員が問答に参加しているわけでもなく、一つの僧侶のかたまりの最前列数名が問答に参加しているだけで、後はのんびり談笑している様子です。また、広場の隅の木の下に座った僧侶は一番偉そうで、全体に睨みを利かせながら時折手元の閻魔帳(?)に採点している感じ。たまに若い僧侶が呼び出されて注意を受け、ぺこぺこしている様子が見られました。

チベット仏教は複雑な論理体系を持ち、したがって僧侶にも論理的思考力を備えることを強く求めるので、こうした問答が修行の一部となっているのでしょう。彼らは論理学の試験を受け、合格すれば昇進の道が開けるのだそうですが、それにしては一見したところあまり真剣に議論を重ねている風には見えません。いったい何を問い、どのように答え、どうやって勝敗を決めているのか?ここだけは自動翻訳機が欲しいところだと思いました。

セラ・ゴンパを辞して市内中心部に戻り、次はジョカンཇོ་ཁང་(大昭寺)です。伝説によればチベットの大地の下に伏せている羅刹女の鎮圧のために、7世紀にラサに都を遷したソンツェンガンポによってその心臓部に湖を埋め立てて建てられたとされていますが、実際はソンツェンガンポの菩提寺として、唐から嫁いだ文成公主とネパールから嫁いだティツン王女によって建てられたものです。

寺の前で五体投地に励む人々を横目で見ながら右手の入口から中に入ると中庭があり、その奥にジョカン主殿の入口がありました。

中に入ると中心に弥勒像や千手観音像を拝する空間を置いて、周囲にぐるりとさまざまな堂が並び、その前の回廊を巡礼することができるようになっています。信者たちはすごいスピードでこの本堂内をぐるぐる回っていましたが、我々はその邪魔にならないように気を使いながら、ジョカン建立の縁起を描いているらしい壁画に見入りました。さらに奥に進むと長蛇の列ができていましたが、これは最奥部にある釈迦堂に納められた本尊の釈迦牟尼像に拝礼しようとする人の列で、我々は時間の都合で列には加わらず遠くから通路の奥の本尊をチラ見するだけでしたが、それでも若々しいお姿を目にすることができました。本来、このジョカンはティツン王女がネパールから持ってきた十一面観音像を本尊として祀っていたはずですが、ラモチェ(小昭寺)に祀られていた文成公主の釈迦牟尼像が後にこちらに移されて、以後はそちらが本尊として扱われるようになったそうです。

屋上に上がってみると主殿の屋根が金色に輝いています。その屋根の上にも、下の段幕の絵柄も、法輪と鹿。このときはその意味を理解することができなかったのですが、後日「インドの仏」展を見て、これが鹿野苑での初転法輪(最初の説教)を示す一般的な図案であることを知りました。

ジョカン正面側を見下ろすと、その周囲をぐるぐる回るコルラ(巡礼)の列と五体投地に勤しむ人々の姿が引きもきりません。

ここで休憩時間となり、茶館に入ってバター茶を飲むことになりました。事前のイメージでは何かどろっとした甘みのあるものを想像していたのですが、飲んでみると塩味で意外にさらさらしています。このバター茶は、お茶を煮出したところにヤクバター、ヤクミルク、ハダカムギの粉を混ぜて専用の器具で攪拌して作ります。チベットの人はこのお茶を一日中何杯でも飲み続けるそうで、そのことが乾燥したチベットの地での塩分と水分の補給法になっているようですが、私はこの1杯だけで十分かなという感じ。

ところで、高地にあるラサ周辺ではお茶はとれません。ではどこから調達しているかと言うことについては、チベットにお茶がもたらされた経緯についての説話のようなものがあるのですが、実際のところは雲南地方とチベットとの間には7世紀から「茶馬古道」と呼ばれる茶葉と馬との交易ルートがあって、盛んに人と物とのやりとりがなされていたようです。

一休みしたら、ジョカンの周囲を巡るバルコル(八角街)へ繰り出しました。ジョカンの巡礼路には3種類あり、一番内側は主殿の周囲をマニ車を回しながら巡るナンコル(内環)、次がジョカンを含むトゥルナン寺の外壁の外を大きく回るバルコル(中環)、そして一番外側はポタラ宮を含むラサ全体を包み込むリンコル(街環)です。このリンコルに視点を合わせれば、ポタラ宮は楕円の中の西の中心、ジョカンは東の中心ということになります。バルコルでは非常に賑やかに巡礼者がコルラを続けており、手持ちマニ車を回しながらひたすら歩き続けるその姿にも五体投地の人々に比べればリラックスしたものを感じました。ただし、ここでもところどころに監視設備が設けられており、誤ってカメラをそちらに向けてしまったツアー客は写真の消去を命じられていました。

なお、バルコルの中には清政府駐蔵大臣衙門旧跡があり、清朝時代の大使がここに駐在していたそうですが、この建物は2013年に修復されたもの。そこに、チベットに対する中国の支配権の歴史的正当性を補強しようとする意図を読む向きもあるようです。

しばらく自由時間となって土産物屋に入ってみましたが、意外に高い!きれいなマニ車や法具がいくつも並んでいましたが、ちょっと手が出せません。最後の最後に親指サイズのマニ車数個をポタラ宮の屋上から飛び降りるつもりで大枚はたいて買い求めましたが、もしかするとボラれてしまったかも……。

夜はヤクの肉鍋=ギャコックを食べに行きました。ここは富士山の山頂に近い標高なのですが、もうビールはすっかり解禁です。肝心のギャコックは野菜たっぷりでヘルシーではありますが、肉には少し臭みがあって「うーん」という感じでした。

ホテルに戻る途中、土産物を買いたいというツアー客の要請でスーパーマーケットに立ち寄りました。皆さんそれぞれにお土産を嬉々として購入していましたが、気になったのは右のソーラーマニ車です。なるほどこれは便利!なのですが、自分の手で回さないでご利益があるものなのか?という素朴な疑問を拭うことができませんでした。