バクタプル観光

2025/11/21

今日はカトマンズ盆地の東の古都バクタプルへのガイドつき半日観光。この日の行き先をバクタプルとしたのは私のセレクトで、この地はカトマンズ盆地で最も古い都であり、ここを訪れれば2018年のカトマンズ(ダルバール広場 / その他)、2024年のパタンと合わせて17世紀に始まった三都マッラ朝の三つの都をすべて歩いたことになるからです。この費用はGH社との契約の中にインクルードされており、私が用意するお金はガイドさんへのチップのみ。私と同じくGH社と直契約だったOさんも希望すれば無償で観光ガイドをつけてもらえることになっていましたが、彼女はゆっくり買い物をして過ごしたいということでこの権利を辞退したので、私一人がこの日の観光に赴くことになりました。

バクタプルの主要な見どころは他の二都と同じく王宮跡があるダルバール広場で、その南東と東にも広場に面した寺院があり、それらの間は古風でエキゾチックな建物群が左右から迫る細い道でつながっています。GH社が手配してくれたガイドのチャンドラさんは車を町の東端に駐めさせて、東のタチュバル広場から南のトウマディー広場、そして最後にダルバール広場に入るという順番でこの古都を案内してくれました。

ちなみにチャンドラさんはネワール人で、日本に渡ったことはなくネパール国内の日本語学校で学んだだけということでしたが、ほぼ不自由ない日本語の使い手でした。そして彼は自分の言語であるネワール語と共通語であるネパール語のほか英日印の合計5カ国語を操り、漢字に興味があったので中国語も少し話せるという話と共に、今のネパールの子供たちに対する教育もネパール語より英語を重視しているという話を聞かせてもらったとき、昨年のガイドのチリンも今年のガイドのソナムも英語を日本語以上にスムーズに使いこなしていたことを思い出しました。

タチュバル広場

チャンドラさんはまず小手調べとしてタチュバル広場の手前にあるワクパティ・ナラヤン寺院に案内してくれましたが、ここに至るまでの街の佇まいもすでに十分ヒンドゥーというかカオスというか、まるで数百年前の街の空気がそのまま残っているような印象でした。

この寺院はヴィシュヌ神を祀っており、バクタプルの北東の丘の上にあるネパール最古のヴィシュヌ寺院であるチャング・ナラヤン寺院にお参りに行けない人のための「代わりの寺院」となっています。そして一列に並ぶ柱の上に乗っているのは、ヴィシュヌの乗り物であるガルーダです。法輪の両脇に鹿、という上品な仏教寺院ばかり見てきた目には、ヒンドゥー寺院のこうした稠密な作りと装飾性は刺激が強く感じられますが、これは序の口です。

この細い通りの圧迫感と、そのところどころに予告なしに現れるガネーシャ像や深い井戸に驚きながらタチュバル広場に建つダットラヤ寺院の裏手に出ましたが、寺院を見る前にその左後ろにある木彫美術館(旧僧院)の左奥に向かいました。

そこにあるのは「孔雀の窓」と呼ばれる窓飾りの彫物で、お向かいの古美術品店の2階から真正面に眺められるようになっていました。

なるほど、これは見事。『地球の歩き方』が「ネワール彫刻の最高傑作」と激賞するのも頷ける出来栄えです。木彫美術館の建物自体が15世紀にできたものだそうですからこの彫刻もそのときのものだと思いますが、その洗練されたデザインといい彫刻の精巧さといい、非の打ちどころがありません。

広場に入って振り返ると、この広場を代表するダットラヤ寺院(15世紀)と大勢の修学旅行生たち。ダットラヤはブラフマー(創造)、ヴィシュヌ(維持)、シヴァ(破壊)の三神が一体となったもので、その前に立つ柱に乗っているのはこれもガルーダです。

それにしても周囲の旧僧院のファサードの見事な彫刻と、そうした文化財的価値に無頓着に建物を利活用している様子には驚きました。ここでは15世紀と21世紀とが屈託なく共存しているようです。

トウマディー広場

続いてティブチェン・トールという緩やかに蛇行する道を歩いて、途中では珍しく仏教の修道院だったという建物(よって五色旗あり)を眺めながら西南西へ進みます。

相変わらず随所に見られる宗教的なモニュメントに些か興奮しながら歩いているうちに、前方にトウマディー広場が見えてきました。

広場の北側に聳えるのは、バクタプルのランドマークと言えそうな高さ30mの五重塔を擁するニャタポラ寺院(18世紀)です。

この五重塔は五層の基壇の上に建てられており、この基壇の最上部までは正面階段を使って上がることができます。私もチャンドラさんに勧められて登ってみましたが、なかなかの高度感。そして広場を見下ろすと左手に三層のバイラヴナート寺院(17世紀)が建っていて、こちらは破壊神シヴァの化身であるバイラヴを祀っており、チャンドラさんの説明によればこちらのニャタポラ寺院もシヴァを鎮めるために建てられたものだ、ということでした。

基壇の最上階は回廊になっており、これをぐるっと回ってみるとなかなかいい気分。そしてここでもネワール人の彫刻の腕の冴えを目の当たりにすることができました。

こちらはニャタポラ寺院の前面(南面)の彫刻ですが、扉の上部や扉、柱の彫りの緻密さはもとより、扉の左右の彫刻の複雑な形状に合わせた煉瓦壁のつくりがこれまた凝っています。

ダルバール広場

さらに南西に細い道をちょっと歩いて陶工広場。ここではさまざまな陶器が並べられ、売られていました。面白かったのは壺の形をした貯金箱で、コインを入れる口はちゃんとあるものの、紙幣はどうするかというと丸めて細い口から押し込むようになっていて、ヒンドゥー教の祭りであるダサインのときにこれを割り、貯まっていたお金で着飾って祭りに繰り出すのだそうです。

陶工広場からひときわ狭い路地を北に向かって、いよいよダルバール広場を目指します。しかし、ここまであちこち歩いてみると、広場や寺院もさることながらこうした昔の雰囲気を残している街中の路地歩きこそバクタプルの魅力だということに気づきます。ここは今日のような駆け足の観光ではなく、市内のどこかに一泊してあちらこちらとそぞろ歩くのが楽しい場所なのだろうと思えてきました。

またしても修学旅行(?)の生徒さんたちで大賑わいの広場の向こうには、右端にパシュパティナート寺院、中程にヴァツァラ・デヴィ寺院、そしてマッラ王の石柱の向こうにチャシリン・マンダップ(巡礼宿)がひしめきあっています。

奥へ進むと左に堂々とした構えの建物が広場の北面を画していますが、これが旧王宮です。

この凝った意匠(上はガルーダ、その下はマッラ朝の守護神タレジュ・バワニ)の破風を持つゴールデン・ゲートをくぐると旧王宮の中で、建物の間を右から回り込んでいくとこの王宮の中核であるタレジュ・チョークやその奥のクマリ・チョークに通じる入口があり、その入口の上の彫刻はこれまで見てきた彫刻の数々が霞んでしまうほどのすばらしい出来栄えでしたが、残念ながらこの彫刻は撮影禁止、チョークの方もヒンドゥー教徒以外お断りとなっていました。

その代わり、というわけではありませんが王宮内の沐浴場は撮影可能です。蛇の意匠はナーガで、一説によればここは女官たちが沐浴するさまを王様が高みから眺めるところだったとか。これを権力者の悪趣味ととるか『源氏物語』の「垣間見」のようなものだと善意に解釈するかは見る者の感性次第です。向こうの壁に整列している生徒さんたちはまだ小学生程度に見えましたが、彼ら彼女らはこの場所の意味をどう理解したでしょうか。

ゴールデン・ゲートを出てお隣は「55窓の宮殿」(17-18世紀)です。全体として幾何学的な精緻さを感じさせるこの建物も、ネワール建築の傑作とされています。

「55窓の宮殿」とパシュパティナート寺院の間を抜けて先に進みます。振り返ればこれらの寺院・小祠が密集した空間を作っていますが、1934年の大地震の前にはこの広場にはもっと多くの寺院が建っていたということです。

左手前はシッディ・ラクシュミ寺院、奥に見えているのはファシデガ寺院ですが、ファシデガ寺院の基壇にも、広場を囲む建物(巡礼宿)にもさまざまな年齢層の修学旅行生が鈴なりになっていて、ちょっとげんなり。ネパールでは11月下旬というのは修学旅行シーズンなのかな?そうかどうかはさておき、ネワール人にとって古都バクタプルは文化的なアイデンティティを象徴する街であり、だからこそ子供たちの教育に一役買っているということなのでしょう。

最後に、ダルバール広場を去りがてらチャンドラさんは国立美術館(旧王宮の一部)の入口や広場出口近くにあるいかにもヒンドゥーな激しさを持つ彫刻についての説明をしてくれたのですが、残念ながら私の方にヒンドゥー説話に関する予備知識が不足しているために、その説明のほとんどを理解することができません。ただし、左上の彫刻を前にして「猿が」「王妃が」という説明がされたときには記憶の奥底から『ラーマーヤナ』のハヌマーンの名前が蘇り、かろうじて面目を施しました[1]。このように文化遺産を訪れていると、たとえばチベットを旅したときに得たチベット仏教についての知識や、カンボジアを旅したときに得たヒンドゥー説話の知識が不意に立ち上がってきて、目の前の事象と結びつくという体験をすることがあります。これがアジア圏の旅の面白いところです。

古都バクタプルの見学は以上で終わりですが、実はバクタプルにはもう一つ名物があります。それは「ジュジュ・ダウ」(王のヨーグルト)です。チャンドラさんが車を呼び寄せている間に買い求めたヨーグルトは、素焼きの小ぶりな器に入っていてアイスクリームのような見た目をしており、口に入れてみるとバニラアイスに酸味を加えたような味と食感で、とても食べやすいものでした。これを食べ終えてじんわり多幸感に浸っているときに車が到着し、ここからそのままカトマンズのフジホテルを目指しました。

ところで昨年パタンを歩いたとき、やはりあまりにも緻密な彫刻と建築の見事さとに感嘆しながらこれだけの高度な技術と芸術性を備えた工人・職人を抱えられるとは、マッラ朝時代のネパールはどれだけ豊かな国だったのでしょうか?この建物は三都分裂の時代のものですから、それほど大きな版図が背景にあるとは思えないのですがという感想を持ったのですが、今にして思えばこれは愚問でした。確かにカトマンズ盆地は6000年前まで湖だったところで、その肥沃な土地が相当の農業生産を実現したことは間違いないだろうと思いますが、マッラ朝の経済力の源泉は大地の生産力ではなく、チベットとインドとをつなぐ交易路上にあるという地の利を生かした中継貿易だったのです。北からは畜産物や塩が、南からは穀物や織物が運ばれて互いの国の民の消費を賄い、間に立つネワール人たちはその流通に介在することで富と文化を吸収して、いま見られる三都の美しさを後世に残したというわけです。

ホテルに戻ってチャンドラさんと別れてから、渡世の義理を果たすべく「Friendly Export」と「Mountain Tea Trade」を訪ねてお土産の残りを購入。手持ちのルピーがずいぶん少なくなってきました。

さらにT氏の案内で近場のカフェに行きOさん、T氏、F氏としばし談笑の後、ギャコックを食べに行く彼らと別れた私は残りのルピーを消費するべく昨年優斗に教えてもらった「ロータス・レストラン」を訪ねました。注文したのは「A定食-ナスと厚揚げ・豚肉の味噌炒め定食 ご飯・味噌汁・漬物つき」で、味も量も申し分ないのにたったの500ルピーです。

ついにネパールを離れるときがやってきました。フジホテルにはソナムも見送りに来てくれて短時間ながら別れを惜しみ、その後デンディさんがドライバーさんと一緒にトリブバン空港まで送ってくれて、別れ際にカタを掛けてくれました。デンディさん、ありがとう。お世話になりました。

帰国のフライトはA氏がすでに午後発の便でバンコクに向け飛び立っており、私はクアラルンプール経由、Oさんはシンガポール経由、F氏は香港経由、T氏はネパール航空の成田直行便と見事にバラバラ。恐ろしく効率の悪いバゲージドロップをなんとかこなした後はゲート前のベンチに座って搭乗時刻を待ちましたが、やがてそれぞれのゲートに向かうタイミングとなって、互いに別れを告げあいました。

脚注

  1. ^左上:ハヌマーン / 右上:ナラシンハ / 左下:ウグラチャンディ(パールヴァティの化身) / 右下:バイラヴ(シヴァの化身)。