トルファン III - 高昌故城

2011/05/02 (3)

食事を終えて外に出たのは15時すぎですが、厳しい日差しはまだまだ暑くなりそうな気配。それもそのはず、北京時間での15時ですから。ちなみに韓さんの説明によれば、トルファンは日中があまりに暑いので、勤め人の勤務時間は8時から正午までと17時から20時まで。つまり、5時間もの昼休みがあるのだそうです。ともあれバスに乗って、トルファン郊外へと繰り出します。東へ向かう道の左側は乾燥した岩山に砂をまぶしたような景色、右側は比較的緑ありといった感じです。

やがて有名な火焔山の南を通り抜けました。ここは京劇「火焔山」でもおなじみのところで、『西遊記』では三蔵法師一行の行く手を遮る火焔山の炎を消すために孫悟空が牛魔王・鉄扇公主と戦って芭蕉扇を手に入れるエピソードがあります。実際、この辺りでは摂氏66度を記録したこともあるそうで、そんな中、この山肌が蜃気楼の中に揺れたら本当に燃え上げっているように見えることでしょう。

日よけの高くて大きな屋根の下に土産物屋がかたまっている一角にバスを停めたところ、地元の子供たちが土産物を売りにわらわらと駆け寄ってきましたが、見れば皆、コーカソイドっぽい顔立ちをしています。この仕事熱心な子供たちをかき分けて、我々はロバ車に分乗して高昌故城の中へ進みました。馭者が鼻歌を歌いながら進むロバ車の乗り心地はなかなかでしたが、韓さん曰く「日本ではロバを食べますか?食べない?新疆では食べますが、とてもおいしいです」。するとそれが耳に入ったのか、後続のロバが車間距離をぐっと縮めて荷台の一番後ろに座った韓さんのズボンの裾をくわえようとするので、韓さんは「きゃー!」と悲鳴を上げていました。

火焔山は、この辺りでは東西に走っている天山山脈の南斜面に大地の下から突き上げてきた前衛の山並みで、その一部が切れて水流が南の平原へ流れ出したあたりに位置するのがこの高昌故城です。標高は海抜マイナス40mと海面よりも低く、夏は厳しい暑さに見舞われます。前漢の武帝の時代に天山南麓一帯が漢の勢力下に入ったことは交河故城のところで触れた通りですが、この灼熱の地にも屯田が行われ、その軍事基地は高昌壁と呼ばれるようになって戊己校尉(西域支配のための官職)も交河からここへ移されました。その後、五胡十六国時代に高昌郡となり、西暦460年に北方騎馬民族である柔然がここを北涼から奪取して(おそらくその傀儡国家として)闞氏高昌国が樹立されましたが、王権はなかなか安定せず、5世紀から6世紀への変わり目に麴氏高昌国が建ってようやく安定しました。とはいえ、この地の宿命として北方騎馬民族と中華諸政権との間で難しい外交的な舵取りを続けた後、西暦640年にはついに唐の軍門に下って西州となり安西都護府が置かれ、8世紀にはチベット系の吐蕃、9世紀後半には天山ウイグル王国の支配下に入った後、13世紀のモンゴルの侵攻により荒廃することとなりました。それでもいったんは都市の復興が試みられるものの、14世紀後半にはこの地方の政治・経済の中心はここから西へ40kmの現トルファンに移ってしまいます。

現在残されている高昌故城の全体像は天山ウイグル王国時代のもので、同心円状に配置された宮城、内城、外城からなっており、周囲3600mの内城は麴氏高昌国の城域、周囲5000mの外城は天山ウイグル王国のときに拡張された城域です。我々を乗せたロバ車は北の門から入って内城を通り抜け、南西の一角にかたまっている建物群に達しました。

中央の丸みを帯びた建物が、西暦628年(630年という説も)に玄奘が『仁王般若経』を説法をしたとされる建物です。中に入ると四隅にアーチ状の構造があり、その下で話すと声が通りやすくなる仕掛けになっています。求法の旅の途上にあった玄奘は伊吾から天山山脈の北へ抜けるルートを予定していましたが、高昌国王の麴文泰の求めでこの地に到着し、2カ月にわたり滞在しました。熱心な仏教徒である国王は玄奘を引き止めようとしたそうですが、玄奘は旅の帰路に再びこの地に立ち寄って3年間留まり説法することを約束して出国。その際、国王は西域諸国を旅するために必要な物資や紹介状を玄奘に与え、君臣共々見送ったと言います。麴文泰が玄奘に持たせたものの中でとりわけ重要であったのは西突厥の葉護可汗に宛てた書状で、玄奘の前途のオアシス諸国に対して玄奘に便宜を図ることを命じるよう依頼する内容です。ただし、玄奘一行は大キャラバンとなって高昌国から西に向かっていますが、そこには当然高昌国自身の交易という目的がありソグド人商人も多数同行していました。2カ月という期間は、こうした隊商を組む準備のために必要とされた時間であったのかもしれません。

こちらは説法の場のすぐ近くにある寺院跡。正面ののっぺりした建物の下に見えているのは、もとはそこにあったはずの大仏の足の部分です。そしてその建物の左側に回り込むと側面に無数の壁龕があり、その中には彩色もかすかに残されていました。

向こうに見えているのは内城の城壁。高さは10mくらいあります。

建物は日干し煉瓦で造られています。この一角だけが修復の手を加えられていますが、後は崩壊・風化が著しく、全体としては荒廃しています。しかし、その荒れ果てた雰囲気がこの地の歴史の過酷さや運命の無常さを示しているようで、印象深い遺跡ではありました。

再びロバ車に乗ってゲートへ戻る内城沿いの道の彼方で、遠く北から我々をじっと見下ろしているのは火焔山です。

ところで、国王麴文泰以下の盛大な見送りを受けた玄奘は、再びこの景色を見ることがありませんでした。インドでの求法の遍歴を終えて10数年後に帰路に就いた玄奘は、ヒンドゥークシュ山脈を越えたクンドゥズ(現アフガニスタン北東部)に達したところで、高昌国が唐の軍勢に攻略されて滅び麴文泰も既に亡くなっていることを知り、このため西域南道を通って玉門関から帰国したからです。そして、ここで出会った玄奘の足跡は、この旅の最後に訪れた西安の大雁塔へと続くことになります。