塾長の渡航記録

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私=juqchoの海外旅行の記録集。遺跡の旅と山の旅、それに諸々の物見遊山。

トルファン II - 交河故城

2011/05/02 (2)

さて、バスで移動していよいよ交河故城へ向かいます。

灼熱の太陽にじりじりと焼かれるここはトルファン市街から西へ10km。先ほどのカレーズがトルファンで一番涼しい場所だとすれば、ここはトルファンで一番暑い場所だそうです。

これは入口近くの建物の中にあった交河故城のジオラマ。その名の通り、二つの川筋に挟まれた高さ30mの断崖の上の柳葉状の台地(南北1700m / 東西300m)の上に都市が広がっています。手前(南)が住居、ついで官庁街、さらに中央の大通りの奥には大仏寺、その北は墓地。

南門に通じる川を渡ってスロープを登ると、そこがもう交河故城です。

この地は古くは姑師といい匈奴の支配下にありましたが、前漢の時代に漢の影響下に入り、車師前国の王都・交河城(ヤルホト)として史書上に記録されました。中国の王朝と北方の騎馬民族(たとえば漢と匈奴)の双方の政治的圧迫を受け続けた車師前国が5世紀に高昌国によって滅ぼされ、さらにその高昌国が7世紀に唐に滅ぼされた後もこの交河城は地域の主要都市としての地位を保ち続け、現在残っている建物はほぼ唐代のものとされています。その後のウイグル支配下でも一定の役割を担い続けたこの都市も、13世紀のモンゴル進出以後は衰退し、やがて現在見るような廃墟となってしまいました。

もとは2階建てだった大きな展望台。日干し煉瓦が部分的に入口を塞いでいる様子が見られますが、これは風による侵食を防ぐためのものです。

彫刻都市とも呼ばれるように、黄土の台地を掘り下げているのがこの都市の特徴です。

降りてみたここは天井庭院と呼ばれる役所で、こうして垂直の壁が崩れずに残っていることから土がよほど固く凝結していることが窺えます。左端階段のすぐ右に洞穴の口のようなものが開いていて人が覗き込んでいますが、このように地下を横に掘り進めることによって、かつてはもっと広い地下空間が広がっていたそうです。

奥に見えているのは井戸。交河故城には約300本の井戸があり、そのうち100本ほどは今も生きているそうです。そして、この官署の近くでは嬰児の墓が200体分も見つかったそう。疫病によるものなのか、それとも戦争で避難する際に足手まといとなることを恐れて殺したのか、などと想像してしまいます。

見渡せばからからに乾いた都市遺構。ここでは実に1500年以上にわたって人々の営みが続けられ、最盛期には3,000人も住んでいたといいますから、相当な賑わいだったことでしょう。

北の方の眺め。遠くに大仏寺の仏塔も見えているのですが、韓さん曰く「今日は(時間の都合で)あそこへは行きません」。とても残念ではありますが、気を取り直して深く掘り下げられた道を東門へ向かいます。

こちらは東門の内側の広場。右下にちらりと見えている円形の蓋は井戸で、穴を覗くとかすかに光を反射する水面が見えました。

東門の外側に立つ背の高い木はポプラで、対岸には葡萄を干す煉瓦積みの建物がいくつも建っていました。このように降水量の少なさで大地は乾いているものの、ここには水もあり、このために古来交通の要衝となってきたようです。しかしそれでも、日本人にはとても住めそうにない環境です。

交河故城の見学を終えて、バスでトルファン市内のレストランへ。南疆ビールで喉を潤し、普通においしい中華料理の昼食をいただいてから、次なる目的地=高昌故城へ向かいます。