塾長の渡航記録

塾長の渡航記録

私=juqchoの海外旅行の記録集。遺跡の旅と山の旅、それに諸々の物見遊山。

バゴー - チャイティーヨー

2002/12/29 (1)

朝食を済ませて6時にホテルを車で出発。これからの2日間は、チャイティーヨーへの陸路の往復です。運転手はPink Floydのベーシストのロジャー・ウォータースみたいな顔だちの男で、今いち愛想がありません。市内を抜けて、やがて朝日を右に見ながらバゴーへ向かう有料道路(乗用車は30Kとのこと)を北上しました。よく鋪装された道路ではありますが、沿線住民にとっては生活道路でもあり、人はもちろん犬やら牛やらも歩いているし、途中では細長い大きなスイカを売っている露店もあったりして、なんだか締まりがありません。

1時間半程で着いたのがバゴーの手前のチャイプーン・パヤーです。車を降りるときにチョチョルィンさんがちらっとこちらの足元をチェック、私はもちろん素足にサンダルで準備万端。

高さ30mの四角い柱の四面にそれぞればかでかい仏像がすわっており、優しい顔・笑った顔・困った顔・凛々しい顔といった具合に表情が異なります。チョチョルィンさん曰く、この仏像を作った4人姉妹は不婚の誓いを立てていたのに、そのうちの1人が誓いを破って結婚したところ、仏像の1体が崩れてしまったとのこと。今はすっかり修復されて真新しく見えますが、造立は1476年と意外に長い歴史があります。

続いてバゴーの市内に入りました。ここはヤンゴンの北東70kmに位置する下ビルマの中心地で、モン族の旧王都です。モン族はこの下ビルマからタイの南部までを長きにわたって支配した民族で、私もこれまでのタイへの旅行の中でナコーン・パトムロッブリーのドヴァーラーヴァティー王国の足跡を見てきましたし、チェンマイの近くにあるランプーン / ランパーンもモン族のハリプンチャイ王国の故地でした。それくらい広範囲にわたってインドシナ半島に君臨し、周辺国に高度な仏教文化を伝えたこの民族のことは、もっと詳しく勉強しておく必要がありそうです。

さて、バゴーの見どころはまずはシュエターリャウン寝釈迦仏です。境内に入ると、1羽の黄金色の鳥の上にもう1羽の鳥が乗って羽を休めている絵があって、これは仏陀がまだ干潟に過ぎなかったこの地に逗留したときに敬意を表して3度回り飛んだというハムサ・バードのカップルです。バゴーの発祥譚に関係があるこの鳥は雄の背に雌が乗っており、このためかどうかバゴーはかかあ天下の気風なのだそうです。

この寝釈迦はミャンマー最古のもので、大きさも全長55mとミャンマーで5番目のもの。994年にモン族のミガディパ王により作られ、18世紀のアラウンパヤー王によるバゴー侵略によって放棄されてしまいましたが、英国植民地時代の鉄道建設工事によってジャングルの中から発見されたとのこと。実に端正な顔だちの仏様ですが、涅槃仏ではなく寝釈迦なので足の裏は揃えられておらず、美しい模様が描かれています。また、頭の下には枕があり、その側面にはシッダールタの誕生から入滅までがモザイク装飾で順を追って描かれていました。

背中側の台座には、この寝釈迦が作られた縁起が図説されていました。そのあらましは次の通りです。

昔、ミガディパ王は仏教ではなく邪神を信仰していた。ある日、神への捧げものを狩りに行かせた息子が、森で出会った美しい女性を嫁に迎えて城へ連れ帰った。ところがその女性は仏教を信仰し、仏像を敬っていた。これに怒ったミガディパ王は女性を処刑しようとしたが、女性の祈りによって邪心の像は破壊されてしまった。悔い改めた王は仏教に帰依することになり、ここに仏像を造立した。

ついで車でバゴーの市内を突っ切っていきましたが、道はかなりの渋滞です。タイでいうところのソンテウを大きくしたようなバスが目の前を走っており、チョチョルィンさん曰く「あれは70年前から使い続けている」とのこと。

やっと着いたシュエモード・パヤーは、かなりの大きさで驚きました。ヤンゴンのシュエダゴォン・パヤー、ピィのシュエサンドー・パヤーと共にミャンマーの三大仏塔と言われ、ここも1000年以上前に建てられたのだそうですが、改築を重ねて今では高さ114mとミャンマー最高(世界最高はタイのナコーン・パトムにあるプラ・パトム・チェディ)です。青い空の下に高く聳えたつ黄金の仏塔は、見ているだけで敬虔な気持ちにさせられますが、ふと気付くと空の上の方からきゃらきゃらと不思議な音が降ってきます。それは仏塔の頂上部につけられた風鈴が鳴っているのですが、あたかも天上の楽士が妙なる音楽を演奏しているようで、本当に俗世を離れた世界に迷い込んだような気分になりました。

仏塔の回りをぐるっと歩くと、一角に仏塔の上部を輪切りにしたようなものが斜めに置かれていました。これはかつて地震で崩れ落ちた尖塔の一部を記念にそのまま残しているのだそうで、断面を見ると、なるほどレンガが巧みに組み合わされてきれいな円柱を作っているのがよくわかります。また、ちょっと離れたところになぜか鎌倉の大仏にそっくりの高さ2mほどの仏像が飾られていて、説明を見るとこれは日本人の鈴木さんという方がビルマで戦死した父君を偲び寄進したものだとわかりました。

バゴーを離れて、車はチャイティーヨーへ向かいます。途中、シッタウン川を渡るところで線路の修理を行っており、人々がレールを人力で持ち上げているのにカメラを向けようとしたところ、運転手のロジャー(と勝手に名付けることにします)からすかさず注意が飛びました。ミャンマーでは、軍関係と鉄橋は撮影禁止。まぁわかってはいたのですがロジャー、君に言われたくはないよ。気をとりなおしてチョチョルィンさんと、ここ数年の通貨下落のことやら車の値段やら、はてはチョチョルィンさんの仕事上の夢なんかをおしゃべりしました。その間、車窓の向こうを通り過ぎる村落はどれも高床式の涼しそうなもの。ヤシの木、ゴムの木、バナナの木、カシューの木。刈り取り済みの水田、グァバの畑。

どうやら門前村らしい場所(おそらくキンプン)で車を降りて、ここで昼食となりました。タナカで頬を白く塗った、熊川哲也に生き写しのウェイトレスさんの顔に笑いをこらえながら、地元の参詣者たちと一緒にカレーを食べたのですが、カレーといっても香辛料のきいた辛いものではなく、ごはんに野菜や肉の炒め物 と煮込み系のおかずを乗せるという意味でのカレーで、味は全般に穏やかです。そして店の中には、なぜか菊川怜が「超モーレツ!」とやるポスターが貼ってありました。

食後は、近所の土産物屋を冷やかしました。ここの名物は各種のジャムと、そして木や竹で作った銃砲類の模型ですが、模型といっても大きなものは本物の機関銃くらいあり、誰が何のためにこんなものを買うのかと訝しまれます。その後に、山の上まで参詣者を運んでくれるトラックバスの出発待ち。荷台にベンチのようなものが横何列かに渡してあり、立っている者も含めると40〜50人もの人がそこに乗り、満員になったら出発です。外国人専用のバスもあって、こちらは立派な椅子が荷台にしつらえられていますが、我々は普通のトラックバスの助手席に乗せてもらいました。

起伏のある鋪装された山道をぐんぐん走り、途中のゲートでは降りてくる車とすれ違い待ちをしながら、1時間弱で上の参道の入口に着きました。喧噪の中、チョチョルィンさんが素早くポーターを決めて彼に荷物を手渡すと、ポーターは背中に大きな篭を背負っていて、荷物をその中に放り込みすたすたと山道を歩き始めました。参道の登りはけっこう急で、普段足腰を鍛えている人でないと少しつらいかもしれません。となれば、需要あるところに供給あり。4人で担ぐ輿のサービスもあるのですが、聞いてみると10ドルといいお値段です。「ハロー!キャリー?」と声を掛けてくる彼らは、ときに客の取り合いで喧嘩をしていて、雲助魂は万国共通なのだなと感心したり呆れたり。

道は鋪装路を離れて、山腹につけられた土の道に移りました。道の両側にはいろいろな出店が並んでいて土産物や食べ物を売っているのですが、妙に目立ったのが動物の油です。牛?の頭部や足、脂肪分、爬虫類など「超」が付くくらい怪し気なものを下から加熱して出てくる油をびんに詰めて売っているもので、あまりの迫力に残念ながら効能を聞くのを忘れてしまいました。

登り45分ほどで、賑やかな山上のホテルKyaiktho Hotelに到着しました。山の上といってもこの辺りはなだらかな尾根状で、雰囲気としては奈良県の吉野に近い気がします。ここにチェックインして少し休んでから、先ほどから前方に見えていたチャイティーヨーの黄金の仏塔を拝みにいくこととしました。

泊まる棟が異なるチョチョルィンさんといったん別れてホテルの従業員に部屋へ案内してもらうと、部屋は屋外、尾根筋脇の斜面に階段状に連なるコテージの一つで、ずいぶん小振りなツインベッドの部屋の奥にトイレ兼シャワールームがついています。ここで従業員がトイレを示し「Water?」と聞いてきました。なんのことかわからず曖昧にうなずいたところ従業員は引き上げましたが、トイレットペーパーがないことから先ほどの質問は「Water or paper?」、つまり「あなたはお尻を水で洗う習慣か、それとも紙を使うか」と聞いたのだと気が付きました。しかし、そんなこともあろうかとトイレットペーパーは日本から持参しているのでノープロブレム。30分ほど休んで16時に斜面の階段を上がってホテルの前でチョチョルィンさんと落ち合い、いよいよ仏塔を目指しました。