塾長の渡航記録

塾長の渡航記録

私=juqchoの海外旅行の記録集。遺跡の旅と山の旅、それに諸々の物見遊山。

ロッブリー

2001/01/02

いよいよタイでの最終日。帰国の飛行機はこの日の夜の便なので、その前にロッブリーを観光しました。

モン人が7世紀からタイ南部に建てたドヴァーラーヴァティー国の中心地の一つであったこの都市はアユタヤのさらに北にあり、ハリプンチャイ王国の始祖チャーム・ティウィーの生地とされています。そういう意味で今回のチェンマイ旅行との間に一貫性があるのですが、実際にはモン人の頃の遺構は何も残っておらず、10世紀以降のクメールの遺跡、そしてアユタヤ朝のナライ王のもとで副都として栄えた頃の建築物が残るばかりです。

ユウコさんのマンションに迎えにやってきたのは、ウェンディー・ツアーのマイクロバス。我々以外には日本人の夫婦2組が乗っており、簡単に挨拶を交わして乗り込むと車は北を目指して走り出しました。ガイドはえらく元気のいい若い女性のメーさんで、客の中の1組が以前参加したツアーで彼女にガイドしてもらったことがあるらしく「あら、やっぱりメーちゃん?」と喜んでいました。また、その御夫婦の男性の方がロッブリーの「ブリー」とはどういう意味か?と質問していましたが、確かにタイにはロッブリー、ペッブリー、チョンブリーなど「***ブリー」と名のつく都市名がたくさんあって、実は「ブリー」とは「都市」という意味です。他によく聞くのは「ナコーン***」「***ターニー」ですが、それぞれ「(水辺の)町」「都」といったところ。北タイには「チェン***」「メー***」という地名も多く、「メー***」は「川」のことですが「チェン」も実は「都」。おそらく南タイの方とは異なる言語に由来するのでしょう。

ロッブリーに着く前に、ワット・ロイ・プラプッタバートに立ち寄りました。「仏の足の裏の寺」という名前の通り、ここには大きな仏足跡があります。かつて勉強したところによれば、初期の仏陀信仰はその舎利を祀ったストゥーパに対する崇拝として行われ、ギリシア・ローマの影響が入る紀元1世紀頃までは仏像は作られず、仏陀の存在を菩提樹や仏足跡、円輪光などで象徴的に表していました。そうした知識が記憶に残っていたので試みに「この仏足跡はいつからここにあるのか?」とメーさんに聞いてみましたが、残念ながら明確な回答は得られませんでした。

それはさておきこの寺の本尊には、自分の身体で具合が悪いところに金箔を貼ると良くなるという御利益があるとのこと。他の客も「近頃どうも腰が……」などと言いながら一所懸命貼っていましたが、3週間前のアイスクライミング中の落氷で右足を傷めている私は、迷うことなく右の腿と膝に金箔を貼りつけました。どうか本当に御利益がありますように。

ロッブリーに着いてまず向かったのはサン・プラカーンで、ここは崩れかけたクメール時代のヒンドウー神殿が裏手にある祠堂ですが、歴史的な意義よりもサルを餌付けしていてサル山のようになっているところが観光客をひきつける場所です。ここのサルは相当の性悪で、眼鏡やカメラを持っていかれないように気をつけるようあらかじめガイドから指示が飛ぶほどですが、今日はまだ昼食の時間には早かったのか、果物は置いてあるのにサルはいませんでした。

少々がっかりしながら線路を渡ってすぐのプラ・プラーン・サムヨートへ移りました。これはブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァを象徴する三つのプラーンが連結した遺跡で、12世紀にヒンドゥー教の神殿として作られ、その後17世紀のナライ王のときに本堂が増築されて仏教寺院化したものです。その形はいかにもクメールっぽくていいのですが、町のど真ん中にあって背後のビルやアンテナ塔が写真に入らないようにするのは至難の業。何とも興醒めしてしまいます。

そしてサルたちは、こちらにいました。

駐車場に戻ってみると、運転手が座席をはねあげて何やら修理をしていました。どうやらマイクロバスがマイサバーイ(不調)の様子で、仕方なく修理が終わるのを待つ間にユウコさんは近くの店でタマリンドの実を山ほど買い込み、私は目の前にある古そうな遺跡の写真を撮りました。ワット・ナコーンコザと名前がついているこの遺跡の由来を知るために、さらにそこに立っている解説板を読もうとしましたが、そのとき車が直った様子だったので解説板の写真だけを撮って引き上げました。

ところが、帰国後に解説板の写真を読んでみてびっくり。そこには次のように書かれていました(誤字と思われる部分もそのまま記します)。

THE ANCIENT REMAINS OF THIS BUDDHIST TEMPLE(WAT) ARE PROOF TO THE CONTINUITY OF SETTLEMENT IN THE TOWN OF LOPBURI WHICH STRETCHES BACK A LONG TIME. THE PRINCIPAL CHEDI HAS FOUNDATIONS DEEP IN THE SOIL, ABOUT 4 METRES DOWN AND IS OF THE DVARAVATI SCHOOL ART(8th-10th A.D.). THE PRANG IS MADE OF LOPBURI CRAFTSMANSHIP OF ABOUT THE 11th-12th c A.D. THE VIHARA AND THE UBOSOT ARE AYUDHAYAN WARKS OF ART BELONGING TO THE REIGN OF KING NARAI WHO HAD COME TO LOPBURI TO RESIDE IN THE 17th CENTURY A.D.

見たいと思っていたドヴァーラーヴァティーの遺構が、そこにあったのでした。

続いて向かったのはウィチャーイェン・ハウスです。アユタヤ朝19代のナライ王(在位1657-88年)は1年のうち8カ月余りもロッブリーで暮らし、そのため交易のために渡来した西欧人たちもこの町に多く住んでいましたが、このウィチャーイェン・ハウスはフランス国王ルイ14世が派遣した外交使節のためにナライ王が建てた公邸です。正面奥は教会、右手はフランス大使館、そして左手に王に重用されたギリシャ人フォールコン(タイ名ウィチャーイェン)の住居が並んでいます。当時ナライ王はオランダのインドネシアから半島への進出や英国東インド会社との緊張関係の中で親フランス政策をとっていて、フォールコンはナライ王の側近としてフランスとの外交関係を一手に引き受けていたのでした。しかしフォールコンの末路は悲惨です。フランス軍の駐留、イギリス東インド会社との戦争、さらにフランスがナライ王のキリスト教への改宗を企てたことなどに対する反感が国内に排外気運を生じ、後継者を得ないままにナライ王が重病の床に着くと軍人ペートラーチャーがクーデターを起こして王位に就き、フォールコンは処刑されてしまいました。以後、タイはビルマによるアユタヤ破壊(1767年)まで鎖国の道を進むことになります。

ナライ王の宮廷外交の舞台となったナライ・ラーチャニウェート宮殿は、1677年にナライ王によって建てられ、その後荒廃していたのをラーマ4世が修復したもの。ナライ王の住居は現在博物館となっており、中には欧州との外交関係を示す遺品や古地図などが展示されています。裏手には伝統的な民具などを展示する小博物館もありますが、特に漁具は日本のものと同じに見えました。また、ナライ王が外国の大使らを謁見するためのホールは今でこそ荒廃していますが、謁見場にいる王に対して下から棒のついた台を高く掲げて国書を手渡す外国使節を描いた絵そのままの造りが興味深いものでした。そして門をくぐって外に出たところにあるレンガの基壇は、1688年にナライ王が亡くなった場所です。このロッブリーの都をこよなく愛し、西欧諸国にまで名の知れ渡った偉大な王の終焉の地としては、なんともあっけらかんと寂しいところでした。

12時には見物が終わってしまって、レストランで昼食をとってからバンコクへ帰還。夜、シェラトン・グランデ・スクンビット・ホテルでイタリア料理のディナーの後、ユウコさんに空港まで送ってもらいました。