帰国
2004/01/02
ジャカルタ乗継ぎの飛行機で早朝に成田着。リムジンバスで新宿まで出て、ユウコさんと別れました。お疲れさまでした。
帰宅してみると、驚くことが二つありました。一つはバリ島の地震のニュースで、この日の早朝にバリ島とロンボク島でマグニチュード6.3の地震があり、建物に被害が出たほか、ロンボク島では死者も出たようです。もう一つは留守番電話で、そこにはミャンマーのチョチョルィンさんから「Happy New Year!」とのメッセージが入っていたのでした。
参考情報
歴史
東南アジアの群島部に中国南部から青銅器文化が伝播するのは紀元前5世紀頃ですが、紀元前2世紀頃には既に地中海世界から紅海・アラビア海を経てインドに達し、一方では中国からも南シナ海を南下してマレー半島を陸路横断し、ベンガル湾を通ってインド東岸に至る国際貿易ルートが確立していたことが知られています。ローマと漢のいずれもが金を輸出してインドの産物を輸入しており、インドがこの交易ルートの中心に位置していたことがわかりますが、この交易ルートに乗ってやってきたインド商人たちによって東南アジアの最初のインド化が行われました。やがてグプタ朝(320-520年頃)のもとで地位を確立したバラモン階級によるインド化の第2段階が行われ、インド文化の受容と王権の高度化が進みます。インドから中国(東晋)への帰国の途上にあった僧侶法顕の記録や「宋書」の記載などから、ジャワ島には5世紀には「……ヴァルマン」と名乗る王がいてグプタ文化が受け入れられていたことがわかります。
7世紀、隋や唐に朝貢した国の名前の中に「婆利」「訶陵」が出てきます。前者は言うまでもなくバリであり、後者は中部ジャワのプカロンガンであったろうと言われています。法顕がセイロン島から中国へ帰国する途上、414年に「耶婆提」に5カ月滞在しているのですが、この耶婆提国もまたプカロンガンであったかもしれません。中国へ向かうためのルートはかつてマレー半島のクラ地峡を横断してシャム湾、インドシナ半島東岸を陸に沿って航海するものであり、そのため現カンボジアに扶南、現ベトナムにチャンパが交易国家として栄えたのですが、7世紀頃になると発達した造船・航海技術を背景にインド、アラブ、ペルシアの商人たちがベンガル湾からマラッカ海峡を通過して中国へ直航するルートをとるようになり、その際の寄港地として利用するようになったのが始めはプカロンガン、ついで「尸利仏誓」つまりシュリヴィジャヤ(現在のスマトラ島パレンバン)でした。シュリヴィジャヤは仏教都市であり、「大唐西域求法高僧伝」を著した義浄はここで半年間サンスクリットを学んでからインドに向かっています。
7世紀に中部ジャワに興ったシャイレンドラ王国は訶陵国が首都をジャワ島北岸から内陸部に移したものと考えられていますが、この王国が8世紀から9世紀にかけて建造した仏教建築がボロブドゥールです。アラブ人アブー・ザイドが916年に書いた「シナ・インド物語」の中では、「ザーバジ」の王はジャワ島からマラッカ海峡の両岸を支配し、その中にシュリヴィジャヤも含まれていると記しているので、当時はシャイレンドラ王国がこの海域の貿易を支配していたようです。またこの頃、ジャワ島からインドシナ半島各地に対して盛んに軍勢が派遣されていますが(→アンコール王朝の歴史参照)、こうした略奪行為や貿易行為は、大規模な建築に伴う労働力・物資の不足を補うためのものでした。
一方、ボロブドゥールにやや遅れてプランバナンの建設も行われましたが、こちらはシャイレンドラ王国の東に興ったサンジャヤ王朝が建てた、シヴァ神を主神とするヒンドゥー寺院でした。しかし、926年頃に近くのムラピ火山が大噴火を起こして中部ジャワの平野には人が住めなくなってしまい、人々はボロブドゥールやプランバナンを放棄して東部ジャワへ移動してしまいました。
シュリヴィジャヤは10世紀には東部ジャワからの、11世紀には南インドのチョーラ朝からの掠奪を受け、さらに12世紀にはアラブ船の来航が途絶するようになったため衰退してしまいました。また東部ジャワに移った人々はインドの文化的影響から離れ、5世紀にバリ島に受容されていたグプタ文化の影響のもとで独自の文化を育み、13世紀にシンゴサリ=マジャパヒト王国を建国します。同じ13世紀に、スマトラ島の北端にイスラム国家が生まれ、ついでジャワ島もイスラム化が進んでマジャパヒト王国は16世紀に崩壊。その支配階級はバリ島に移住してここにヒンドゥー文化に基づくユニークな宮廷文化を伝えて行くことになりました。
(参考:『世界の歴史13 東南アジアの伝統と発展』中央公論社)
ホテル
我々が泊まったのは、2001年にオープンした大型リゾートホテル「マヤ・ウブド・リゾート」です。自分は普段泊まるところにはあまりこだわらない方ですが、今回は4連泊だしなんといってもバリ島ですから、思い切ってリゾートっぽくヴィラスタイルにしてみました。
ホテルはウブドの東外れのプタヌ川沿いにあり、ウブド中心部からは車で10分ほど。敷地内をずいぶん奥に入ったところにエントランスがあり、人工の池の向こうに吹抜けのロビーと意外に小さなフロントがあります。このフロントの周囲の建物にも多くの宿泊室がありますが、ヴィラは奥側と手前側に分かれて全部で60棟。ヴィラの中には天蓋つきのツインベッド、木製の大きな家具、ゆったり身体を伸ばせるバスなどがあり、とてもくつろげます。屋根にはやもりがいて、夜になると「キッキッ」と愛嬌のある声をたてるのがかわいいのですが、一度大きな音をたてて天蓋の上に落ちてきたのには驚かされました。
渓谷を見下ろす眺めの良いバーは遅い午後にはジュース類が飲み放題になっていますし、メインダイニングの朝食もビュッフェスタイルで毎日おいしくいただきました。敷地を縦貫する小道を歩いて行って一番つきあたりに谷底へ下るエレベーターがあり、そこにプールやスパがあってこちらは隠れ家っぽい雰囲気がなんともいい感じ。
シンプルなデザインの中にもいろいろ楽しみがあって、もっと積極的にホテルの施設を活用すればよかったかな、と帰国してから少し後悔しています。
通貨
インドネシアの通貨はルピアで、我々がバリ島に着いたときの空港の両替所でのレートは1円=76.5ルピアでした。数日後にウブド市内で両替をしたときは1円=80ルピアぐらいでしたが、空港のレートが悪いのか為替変動によるものかは不明です。それにしても、たとえば1,000円くらいの買い物をすると「76,500ルピアです」とか言われるわけですから、どうにも金銭感覚がよくわからなくなります。
それよりも驚いたのは、ガイドのグン氏に料金をドルで払おうとしたら、一部の紙幣が使えないと言われたことです。なんでも1996年のドル札は偽札が出回ったことがあるとかでNG。申し訳ないが両替所でもっと新しいドル札を手に入れてくれと言われてしまいました。使えないと言われたのは200ドルもありましたが、幸い円にゆとりがあったので、ウブド市内で新しいドル札を手に入れることができました。