帰国

2001/05/07

バンコクから成田への乗継便のチェックイン開始は午後11時15分から。それまでの長い待ち時間を少しでもつぶそうと、30分400バーツのフット・マッサージを頼んでみました。リクライニングシートに座ったこちらの足の指からふくらはぎまでをぐりぐりしてくれるマッサージで、効果の程はよくわかりませんでしたがずいぶんと繁盛していました。向い側に座って同様にマッサージを受けているユウコさんが目をしっかりつぶり、眉間にしわを寄せてマッサージを受けているのが何ともおかしく、後で聞いてみるととにかく痛かったそうです。そうこうしているうちにチェックインの時刻になったので、ここでスクンビットの自宅へ戻るユウコさんと別れてゲートの待合室へ向かいました。

午前1時45分発のNH930便はトリプルセブン(B777)で、シートテレビで『The Family Man』(『天使のくれた時間』)や『Men of Honor』(『ザ・ダイバー』)といった魅力的な映画を選べたのですが、この日の午後には出社しなければならないため、泣く泣く睡眠時間を確保することにしました。

参考情報

歴史

現在ミャンマーの中心民族であるビルマ族は、9世紀から10世紀にかけて中国の雲南省から南下し、エーヤワディー川流域に定住したとされています。それまでは、中国の記録に「驃」と記述されているピュー族がいくつかの小さな国家を作っていましたが、9世紀に南詔国の攻撃を受けてピューの国が滅んだ後、11世紀に覇権を確立したのがビルマ人のバガン王朝です。バガンに都市が建国されたのは849年にまで遡りますが、11世紀に現れたアノーヤター王はモン族の交易都市タトォンを騎象軍団を用いて攻略し、文字と仏教を受容して一大仏教王国を築き上げました。しかし、13世紀には王国の財政が行き詰まりを見せはじめたところへ元朝が隷属を要求し、これを拒絶したバガンは1277年から1287年まで四度にわたりモンゴル軍に蹂躙されることになります。

14世紀から16世紀にかけて、ミャンマーは東部のシャン高原を根拠地とするシャン族の支配するところとなりましたが、16世紀にビルマ族の王朝がタウングーの町に興り、ヨーロッパから導入した火器とポルトガル人傭兵を駆使して周辺を制圧。チェンマイ、アユタヤ、ビエンチャンまでも征服します。タウングー朝は地方・周辺部族の反乱によって18世紀中頃に滅びましたが、ビルマ族のアラウンパヤーがこれに代わってミャンマーの統一に成功し、コンバウン朝を樹立します。タイのアユタヤ朝を1767年に滅ぼしたのもこのコンバウン朝でしたが、19世紀の四次にわたる英緬戦争の結果、ミャンマーはイギリスの植民地となりました。今回訪問したマンダレーはコンバウン朝の最後の王都であり、ヤンゴンはイギリス植民地支配の中心都市でした。

第2次世界大戦時に一時的に日本の軍政下におかれたミャンマーは、1945年にイギリスの植民地に戻った後、1948年に連邦共和国として独立しました。しかし、国家内にはイデオロギーの対立と少数民族の自治要求とが残り、1962年にネーウィン将軍を中心とする革命評議会によるビルマ式社会主義の国家運営が始まります。国家評議会は1974年に解散され、現政権は基本的な国の枠組みを維持しつつ徐々に開放政策を採ろうとしていますが、一方で1988年の民主化運動弾圧の後遺症が残り、また国境の一部少数民族の活動も先鋭化の度合いを強めていて、現政権は難しい舵取りを求められている状況にあります。

なお、現在の国名ミャンマーや地名バガン、ヤンゴン、エーヤワディー川などは、いずれも日本ではビルマ、パガン、ラングーン、イラワジ川と慣用的に呼称されてきましたが、1989年に軍事政権によって改称されました。現地でも新名称が一般的に使用されているので、ここではこれに従っています。軍事政権というと恐怖を感じる向きもあるかもしれませんが、少なくとも旅行者としての我々にとって不自由を感じさせることはありませんでした。もちろん「軍人と鉄橋にはカメラを向けないで下さい」といった注意がチョチョルィンさんからありはしましたが、最近の経済開放政策の中で社会資本の整備や観光振興などが進んでいる現政権のプラスの面を指摘する声も折々に聞けました。ただし、タイとミャンマーとは最近国境が緊張しており、今のところミャンマーのどこにでも安心して行けるというわけでは(残念ながら)ありません。

ガイド

今回の旅の手配は、現地エージェント「Imperial Amazing Green Travels & Tours」に依頼しました。

ガイドのチョチョルィン(Cho Cho Lwin)さんには、本当によくしていただきました。バガンでは仏塔の上から日の出を見たいという希望に応じて自転車に乗って案内してくれましたし、マンダレーで私が下痢のためにダウンしたときはわざわざ部屋までお茶と砂糖のセットを届けにきてくれました。この旅を楽しく思い出深いものにすることができた理由の最も大きな部分は、彼女の明るく献身的なガイドぶりにあったと思います。もし、このレポートをご覧になってミャンマーに行ってみようと思われた方(特に買い物ばかりではなくミャンマーの歴史遺産を真面目に見てみようという方)がいたら、ぜひチョチョルィンさんをガイドに指名されることをお勧めします。

服装

タイと同様、またはタイ以上にミャンマーは敬虔な仏教国であり、寺院への立ち入りにはそれなりの服装を求められます。といっても男性ならズボン、女性なら丈の長いスカートをはいていれば、上衣はTシャツで大丈夫ですが、一点注意するとしたら素足になることを求められる点でしょう。タイでは靴下をはいたままでもOKでしたが、ミャンマーでは必ず素足にならなければなりませんし、場所によっては、車を降りる前に車の中で素足になることを求められます(考えてみると、素足でなければならない場所へ車で乗り付けるというのもヘンな話ではあるのですが)。したがって、最初からサンダルにはだしで移動するのが最も効率的ということになります。私たちの旅では、ヤンゴンでの最初のホテルでもらったシャンバッグの中にサンダルもプレゼントとして入れられていましたが、ちょっと足に合わなかったので、あらかじめユウコさんのアドバイスで日本から持参していた履き慣れたサンダルを使いました。

ビザ

ミャンマーに入るにはビザが必要です(2001年5月現在)。郵送でも受け付けてもらえるのですが、送ってから2週間かかる(しかも有効期間は1カ月)ということなので、桜が満開でうららかな陽気の4月6日に品川区にあるミャンマー連邦大使館に直接出向きました。用意するものは写真(4.5cm×3.5cm)3枚と残存期間3カ月以上のパスポート。あらかじめインターネットで大使館のサイトからプリントアウトしたビザ申請書2枚とReport of Arrivalに必要事項を記入して写真を貼っておきます。門を入って守衛室で入館者名簿に記帳してから、正面の建物1階にあるビザ申請の窓口へ行って、その場で書いたパスポート預かり書とともに提出すると、預かり書だけを返してくれて、4月10日以降発給されるのでそれまでに三井住友銀行の所定の口座に料金3,000円を振り込み、領収書を持ってくるようにと指定されていました。

1週間後の4月13日、午前休をとって八重桜が咲く公園を抜け、ミャンマー大使館にパスポートを回収に行きました……が、ゲートはなぜか鍵がかかっています。がちゃがちゃやっているとミャンマー人の守衛さんが出てきました。

守「今日は休みですよ」
私「(もしや……)休日ですか?」
守「ミャンマーのお正月ですね。火曜日まで休みです」

そういえばタイでもお正月は4月、しかも13日はもろにソンクラン(水かけ祭り)の祭日です。ミャンマーも同じなのでしょうか。ともあれ、この日はあえなく引き下がるしかありませんでした。

さらに1週間後の20日、またも午前休をとってすっかり花びらを散らした桜の木をくぐりながら大使館に行くと、今度は大丈夫。ビザのスタンプが押され、Report of Arrivalがホチキスで止めてあるパスポートを受け取りました。ところで、守衛さんのところで来館者リストに記帳していると、奥から若い職員が「起き抜け」といった風情でのっそりでてきました。本日5人目のところに私が書き込んでいるリストを覗いて、

職「わっ、今日は少ないな〜」
守「(あきれて)まだ早いもん」
職「(時計を見て)なんだ10時前か」

こんなのんびりした会話をミャンマー人同士なのに日本語で交わしているのを見て、何となくこの人たちが好きになってしまいました。しかし、結局最初の大使館訪問から2週間がかかってしまったわけです。

なお、大使館の場所はJR大崎駅から歩いて10分ほどで、特に大使館の所在を示す道標があるわけではないので、初めて行くときは地図は必携です。

通貨

ミャンマーの通貨はチャット(Kyat)で、ほかに補助通貨のピャー(Pya)もありますが、インフレのためピャーは全く使われません。したがって今回の旅行では紙幣しか使わず、硬貨は触れることもできませんでした。ピャーはお賽銭としては使われることがあるそうですが、どこにでもある八曜日の賽銭箱の口は例外なく紙幣用でした。それはともかく、チャットの実効レートは、この旅行の時点では1USドル=500チャットでした。

本文中でも触れましたが、外国人旅行者(w/ 個人旅行者用観光ビザ)は入国時に200USドル相当(円を含む他の通貨でも可)を外貨兌換券(Foreign Exchange Certificates=FEC)に両替しなければなりません。このことはビザ発給時に書面で告知されていることでもあり従わざるを得ませんが、FECは出国時に元の通貨に両替してもらえるわけではありませんし、国外ではただの紙切れですから、私のように「記念に」と持ち帰るのででもなければ、ミャンマーの中で使い切る必要があります。つまりこれは、ミャンマー政府のちょっと強引な外貨獲得手法というわけです。FECもミャンマー国内ではUSドルと同様に通用しており、寺院の拝観料などはこれで払いましたが、買い物の場面では財布の中にUSドル、チャット、FECの三種類を入れておいて、「FECで払ってもいい?チャットでは?」とそのつど確認しました。

ところで、円の方はこのとき1USドル=125円くらいでしたから、1円=4チャットということになるでしょうか。なぜ円のレートが出てくるかというと、バガンの仏塔を回っているとときどき子供たちが寄ってきて、日本人観光客からもらったらしい10円玉や100円玉を「チャットに両替してくれ」と言ってくるからです。

物価については土産物の買い物に終始したためよくわからないというのが正直なところですが、ポッパ山へ行く途中の車中での会話では、バガンで一家5人が暮らしていくのに月収3万チャット(=60USドル) が必要なのに、運転手の月収は5,000チャット、ホテルの一般従業員で6,000チャットだそうです。これでは当然足りないので、家族は皆それぞれに働いて収入を持ち寄るわけです。しかし、これが物価の高いヤンゴンになると、高級ホテルの従業員で月収100USドルにもなるそうですから、ずいぶん地域格差があるものです。

こうしてみると、マンダレーのホテルの部屋で寝込んでいた私が水分と糖分を補給するために備え付けの冷蔵庫から飲んだグレープジュースの3USドルというのは、異様に高かったようです。