塾長の渡航記録

塾長の渡航記録

私=juqchoの海外旅行の記録集。遺跡の旅と山の旅、それに諸々の物見遊山。

ブライトホルン・ハーフトラバース

2004/08/02

朝、目が覚めて外を見るとほの明るく、少し雲が出てはいるようですがマッターホルンは完全にクリアな状態で見えています。これはきっと、と期待しながら待つことしばし、やはり朝焼けの光がマッターホルンの頂上部に当たって赤く染まる様子を眺めることができました。それにしてもうらやましい!今日登っている登山者たちは、最高のコンディションで頂上に達することができるでしょう。私の登頂予定日にも、同じように晴れてほしいものです。

しかし今日はのんびりしてはおられず、テストのブライトホルンに登るため6時50分にゴンドラ駅に集合することになっています。昨夜のうちにパッキングを済ませてあったアタックザックを背に、一人でホテルを出て涼しい道を川沿いに歩きました。ゴンドラ駅に6時40分に到着すると既に何人かの登山者が待っていて、これらは皆私と同じようにガイドを待っている様子です。やがて寒さに鼻を赤くしたマヤが現れて、ガイドとお客の突き合わせを行いました。私のガイドは赤ら顔で精悍な感じのウルス(Urs Lerjen)で、同行のお客はイギリス人のジョンです。簡単に挨拶を済ませ、そこでゴンドラが動き出すのを待っていると、日本人の登山者が声を掛けてきました。話をしてみると、彼はマッターホルン登山のためのテストとして昨日ポリュックスに行ったものの高度障害のためにNGになってしまい、再テストとして今日申し込んだとのこと。別の組ながら彼もブライトホルンのハーフトラバースだそうです。お互いの健闘を祈りつつ、動き出したゴンドラにそれぞれのガイドと共に乗り込みました。

どんどん大きくなるマッターホルンに畏敬の念を抱きながら、2回の乗り換えで一気にクラインマッターホルンに到着。厳しい寒さのトンネルを歩きその出口の手前でウルスの指示によりハーネスを装着し、ロープにウルス、ジョン、私の順番でつながってトンネルの出口を出たところで右を見ると、思いの外に近いところにモン・ブランが大きく見えました。

ここからウルスは凄いスピードでプラトーを横断し始めました。ルートはよく踏まれ、アイゼンなしなのでそれなりに飛ばせますが、それにしてもペースが速い!おそらくこれもテストのうちなのだろうと必死についていくと、ルートはプラトーの端からイタリア側斜面に入り、さらにトラバースを続けて30分ほどで左手にブライトホルンの頂稜へ通じる踏み跡が見えるあたりで停止しました。ブライトホルンの頂稜部は横に細長く伸びており、我々が止まったのはその中間部あたり。だから「ハーフトラバース」なのか……というのは日本人の発想で、日本では「トラバース」と言えば斜面の中腹を横断することを指しますが、こちらで言う「traverse」を日本語に訳せば「縦走」です。つまり、ブライトホルンの頂稜を中ほどから山頂に向かって縦走することを「half traverse」と呼んでいるというわけです。

ここでアイゼンを装着し、いよいよ本格的な技術テストの始まりです。まずは雪の急斜面のアイゼン登高で、おおむね踏み跡をフラットに踏んで辿ることができましたが、傾斜のきついところでは前爪を立てる場所も出てきます。雪はトゲトゲに凍っており、不用意に手を置くとそのカミソリの歯のように鋭利な部分に傷つけられるほど。雪の斜面から岩稜に入るところでピッケルをリュックサックに戻すように指示があり、ついで岩稜のイタリア側をアイゼンを履いたまま横断しました。ここでは岩場でのアイゼン処理の能力が試されているようですが、それなりに緊張するものの、よく足場を見ていけばとりたてて難しいところはありません。

しばらく岩の斜面の横断が続いた後、安定した場所でアイゼンを外すように言われ、ついでかなり痩せた岩稜の上にイタリア側から出て、そのまま稜線通しに歩いて行きます。ところどころに細かい立ち込みを必要とする場面があり、ちょうど日本で言うと北穂高岳東稜に雪が着いた状態が1時間ほども続く感じです。グレードとしては部分的にIV級、おおむねIII級以下といったところ。しかし両側がすぱっと切れ落ちた高度感は素晴らしく、しかもここが4000mの高度にあることを思うとなかなかにエキサイティング。これはかなり面白いルートです。

長い岩稜でしたが1時間の奮闘でようやく終了し、安定した雪のテラスで再びアイゼンを装着してから、食べ物・飲み物を口にしました。前方にはブライトホルンの本峰の右手にマッターホルンが顔を覗かせており、振り返るとこの山群の4000m峰であるポリュックス(4092m)やカストール(4228m)、リスカム(4527m)の姿が見えています。

ここからは易しい雪稜歩きとなって、前方の本峰とのコルに下ります。正直に言うといい加減疲れてきていたので、コルからそのままプラトーに下ってくれるとうれしいなと思っていたのですが、ウルスはそんな甘い男ではなく、そのままブライトホルンの山頂目指して登り返し始めました。疲れていたのはジョンも一緒だったようで、岩場では緊張が持続していたため無難にこなしていた彼も雪稜に入ってからブライトホルン山頂までの間に2回もアイゼンを引っ掛けて転倒してしまいました。ほうほうの態で到着した山頂で、ようやくウルスから「お前は問題ない。おめでとう」と言われてうれしかったのですが、それにしてもこの山頂からの眺めには改めて感動しました。先ほどから見えているマッターホルンや反対側のブライトホルン山群、右手のミシャベルの山々、北正面のヴァイスホルン山群、そしてその先にはベルナーオーバーラントの山も見えています。ひとしきり写真を撮った後、ウルスの指示でプラトーへの急斜面を真っすぐに下りました。角度はおよそ40度くらいで、下るにつれて傾斜が緩くなってきますが、ところどころ堅く凍っている場所もあって慎重さが必要でした。

クラインマッターホルンのトンネル入口で、ウルスにマッターホルンのテスト合格のサインをもらいました。一方、最後にアイゼンの経験不足が露呈したジョンには何かの留保がついた模様で、どうやらアイゼン登攀を伴うルートをもう一つ登って練習してからマッターホルンに挑みなさいということだったようです。

ホテルに戻ってシャワーを浴び、のんびりしているところへユウコさんが戻ってきました。ユウコさんはケーブルカーとゴンドラを乗り継いでロートホルンに行き、さらに徒歩1時間半でオーバーロートホルンまで足を伸ばしてきたのだそうです。周囲360度をスイスアルプスの高峰に囲まれた自然の展望台であるオーバーロートホルンからの眺めは素晴らしかったらしく、しかも下り道で本物のエーデルワイスを見つけたといってユウコさんは興奮気味でした。

午後4時を回ってからユウコさんとともにアルピンセンターに行って、明日(火曜日)の予約を行いました。事前の日本からの予約でマッターホルンは木曜日のアタックとなっているので、空いている明日を使って昨年楽しかったリッフェルホルンに、ユウコさんも交えてガイド付きで行くことにしたのでした。念のため昨日と同じクリスティンに「こちら(ユウコさん)は岩登りの経験がほとんどないけど大丈夫かな?」と聞いてみましたが「全然大丈夫!」との実にお気楽な答です。また、このときマッターホルンについても予約の要否を聞いてみましたが、ウルスのサインの入ったバウチャーの半券に「合格おめでとう!」と言ってくれた上で「マッターホルンの予約は、改めて火曜の夕方か水曜日の朝に。そのときになってみないと、天気が良くなるか悪くなるかわからないから」。

このとき、昨年の天候不良による敗退の記憶が脳裏に甦りましたが、あえてそこを追及しようとはしませんでした。しかし、後から考えてみれば、ここで改めてガイドの空き状況を確認し、可能であれば最初に申し込んだ水曜日登攀にスライドすることを模索してみれば、あるいは登頂のチャンスを得られていたのかもしれません。しかし、このときは昨日アルピンセンターで聞かされた「天気は火曜日が崩れるが水曜日からたぶんGood」という言葉にとらわれてしまっていたようです。