塾長の渡航記録

塾長の渡航記録

私=juqchoの海外旅行の記録集。遺跡の旅と山の旅、それに諸々の物見遊山。

青蔵鉄道 II

2014/12/30

夜明けの2時間前にコンパートメントを抜け出して車両の連結部近くに行ってみると、他のツアー参加者も数名そこに立っていました。目的は皆同じで、制御盤に表示されている高度計が5000mを超えるところを目にしたいという気持ちなのですが、そこに表示されている高度は4000m台で、しかも徐々に高度を下げている様子。つまり、この列車が通過する最高地点であるタングラ峠は既に過ぎてしまっているということです。後から思うにこれは、青海湖を過ぎた後の長いトンネルがショートカットになっていて、事前にもらっていた時刻表よりもずいぶん早く進んでいたということなのだろうと思います。そしてこのことは同時に、我々が既にチベット自治区に入っているということを意味しています。

寝台に戻ってしばらくしてから一時停車したアムド駅のホームを見ると、雪に覆われていました。これは寒そう……という前に、空気の薄さを実感します。まだ薄暗い時間でしたが、身体を起こして意識的に深呼吸を繰り返しました。与圧されているとは言っても列車内の気圧は標高3000m程度にしかなっておらず、この標高に慣れていない人にとっては厳しい環境です。

車窓の外のところどころに雪を置いた荒れた景色の中に、朝日が差し込み始めました。先客氏も起き上がってきましたが、大丈夫か?と聞くと苦しそうな笑顔で「I'm OK.」などと言っています。やがて朝食の時刻になったので私の上の段に寝ているツアー客のSさんに声を掛けたのですが、生返事ばかりで反応が芳しくありません。最初は寝ぼけているのかと思っていましたが、何度か声を掛けたり揺さぶってみたりしてみてどうやら意識が混濁しているらしいと気付き、あわてて食堂車に足を運んで添乗員ヤモトさんにその旨を告げました。既に集合しているツアー客に味噌汁を配っていたヤモトさんは5分ほどしてからコンパートメントに来てくれましたが、パルスオキシメーターで計測した血中酸素飽和度が59%を示したのを見て愕然。64%以下になったら即入院レベルとされていますから、これは危険な状態です。ベッドの頭側に備え付けられている酸素吸入器を使ってまず簡易的に酸素を補給させている間にガイドの才さんが列車に同乗している医師を連れてきてくれて、上段に寝ているSさんを下段のベッドに移してから酸素ボンベを使って本格的な酸素補給を始めました。すると大したもので血中酸素飽和度はみるみる改善し、さらに経口薬を飲ませて落ち着いたところで一段落。ああ、よかった。

そんな騒ぎが起きているとは知らない他のツアー客の皆さんは、食堂車での朝食と窓外の夜明けの美しさを楽しんだようです。上の写真はツアー客の中で一番若いイトウ君が撮影した写真。美しい……。

これが各寝台ごとに用意されている酸素吸入器です。私も血中酸素飽和度を測ってみたところ78%まで下がっていましたが、実は他にも頭痛を訴えるツアー客がいたそうです。同室の先客氏にも迷惑をかけてしまいましたが、彼は意に介さない様子で一部始終に付き合ってくれた後、私に「自分は医者なんだよね。ただし外科だけど」とナイフとフォーク(本当はメスのつもり?)を使う仕草をして見せました。

そんなこんなで西側にあったはずのツォナ湖をいつの間にか見逃した後に、列車はナクチュ駅で一時停車しました。ここでは15分くらいの停車時間があり、元気のあるツアー客はホームに出ることにしました。

きりっと澄んだ冷たい空気の下、思い思いに身体を伸ばし、歩き回って束の間の開放感を味わいます。標高は4513mですが、この頃には薄い空気に身体が慣れてきたのか、それほど息苦しさを感じることはありませんでした。

再び走り出してしばらくすると、列車の右手(西側)に雪を戴いた山並みの姿が目立つようになってきました。これはラサを前にして東西に走るニェンチェンタンラ山脈です。まず最初に見えてきた美しい純白の尖峰はサムディン・カンサン(6590m)。

この季節・この標高では日本なら一面雪景色のはずですが、乾燥しきった内陸高地であるために雪は山の上にしか付いていません。そしてその前には、思い思いに寛ぐヤクの群れ。

主峰のニェンチェンタンラ(7162m)。登攀意欲をそそる山容をしていますが、この山の初登頂は1986年、日本の東北大学隊です。

列車に並走する車は、どこから来てどこへ行くのか。そして昼食はお弁当ですが、Sさんもこの頃にはおおむね回復してこのお弁当を全部食べきりました。聞いてみたところ、Sさん自身は朝方の騒動時の記憶がまったく飛んでしまっており、自分がベッドを降ろされたことも酸素吸入器を使ったことも覚えていないとのこと。高山病、恐るべし。

やがて列車は山あいの川沿いを走るようになりました。川の向こうの高台には遺跡のようなものが見えていますが、それは古くからここに盛んな人の往来があったことを示しているのでしょう。さらに扇状地には集落、その上の高い位置には寺院なども見えるようになってきます。

近代的な建物が目立つようになれば、そこはもうラサ地区の一部。そしてラサ河を渡る瞬間、遠くに見えてきたのは聖都ラサལྷ་ས་གྲོང་ཁྱེརの象徴、憧れのポタラ宮པོ་ཏ་ལでした。

西蔵鉄道の終着駅=ラサ駅には予定よりも早く13時すぎに到着しましたが、これもトンネル効果なのかもしれません。ともあれこの足掛け2日は、アクシデントはあったものの一生の思い出に残る楽しい列車の旅でした。

西寧駅と同様に広いホームでは、民族衣装に身を包んだ家族連れが大きな荷袋を背負って列車から降りてくる姿を大勢見掛けましたが、漢民族の駅員が盛んにホイッスルを鳴らして急き立てているのが印象的でした。

外に出ると日差しが強く、冬だというのに暑いくらい。駅舎周辺は治安管理が厳しく、用事が済んだ客はすぐに数百m離れた位置へ移動しなければなりません。間近での写真撮影も御法度で、ツアー客の一人(鉄道ファン)がカメラを構えたところ係官に咎められてしまいました。そんなわけで一同揃ったところで駅の正面の離れた位置に移動してから、逆光の駅舎を遠くから撮影です。

そして、ここでラサ周辺を担当する背が高くて陽気な女性ガイドの夏寳栄さん(なぜか黒竜江省ハルビン出身)が合流しました。待機していたバスの中でカタ(シルクの白い布)をツアー客一人一人の首に掛けてくれた夏さんは、ホテルまでの道すがら「今日はシャワー、酒、タバコはなるべく控えるように。皆さんの今日の任務は休息です」と厳かに宣言しました。

ところがその日の夕方、ホテルの厨房がトラブルということで急遽、市内の四川料理店に出向くことになりました。マルクス、エンゲルス、毛沢東の肖像画が壁に掛けられた店内で真っ先にしたことは血中酸素飽和度のチェックですが、私は85%とやや低め(しかしこの後、毎日の計測結果はほぼ88%から90%の間で安定しました)。

辛い!しかしうまい!

そして、希望者(と言ってもツアー客の大半)はライトアップされたポタラ宮を見物に行きました。闇夜の中に白く浮かび上がるポタラ宮の姿は神々しく、事前の想像を遥かに超えて大きなものでした。ところが、ここでまたしてもトラブル発生。今度はツアー客の一人がチベット族のおばあさんの連れたヤギの写真を撮ったところおばあさんが怒ってカメラのストラップを放してくれなくなり、ガイドの夏さんがレスキューに行く事態となったのです。年配の世代のチベット族は北京語が通じないため夏さんも相当に手こずったようでしたが、どうにかツアー客を救出してきてくれました。

このポタラ宮前の広場には、こうした標語ポスターがずらりと掲示されていました。敬老や勤勉といった道徳を説く内容が中心ですが、「和為貴」と書かれているものを見ると、やはりチベット族と漢民族との軋轢を連想しないわけにはいきません。少々複雑な気持ちになりながら、バスに乗ってホテルへ戻りました。


▲青蔵鉄道の旅