帰国

2011/05/07

帰国の日は午前5時に起床、5時45分にロビー集合。ただちにバスで空港に向かいましたが、黄砂が押し寄せるような張さんの大陸風ジョークともこれでお別れかと思うとちょっと寂しいものがあります。渭水を渡る橋の上から朝日を見て、そして午前8時にテイクオフ。我々を乗せた飛行機はあっという間に朝靄の上に出てしまい、その下に広がっているはずの中国の大地を見ることはもうできませんでした。

中央アジアに足を踏み入れたのはこれが初めてでしたが、あの乾いた大地と風化した遺跡の有様には強く惹かれるものを感じました。添乗員ナガタさんも「砂っぽい国が好き」と言っていましたが、確かにこれはやみつきになりそう。そこに私の西域趣味を重ね合わせれば、たぶん次に遺跡系の旅に出るときは天山南麓のクチャ周辺か、西域南道のホータンやミーランか、はたまたカシュガルから峠を西に越えたフンザ地方か、いずれにせよ再び「あっちの方」になるだろうと思います。

参考情報

歴史

「シルクロード」という用語は、日本では多くの場合ある種の感傷を伴って用いられるように思います。はるか昔、多くの困難を乗り越えてユーラシア大陸の東と西をつないだ交易の道。沙漠、オアシス、中央アジアのエキゾチックな文化。実際、この交易路を経て運ばれた文物のいくつかは日本に渡って奈良の東大寺正倉院に収められているわけですし、もしかするとこの道を旅した人々の末裔(DNA)がこの国に残っているかもしれません。

シルクロードの西トルキスタン側には多数の分岐があったようですが、東トルキスタン、すなわち今の新疆を通るルートは次の三つに大別されます。

  • 天山北路:敦煌からトルファン、ウルムチを経て天山山脈の北側をイリ河流域へ抜けるルート。
  • 天山南路:天山山脈南麓のコルラ、クチャ等を経てカシュガルからパミール高原へ続くルート。
  • 西域南道:崑崙山脈北麓のチェルチェン、ホータンをつないでヤルカンドから西へ抜けるルート。

これらのうち天山南路と西域南道はタリム盆地のタクラマカン沙漠をはさむ位置関係にあり、それぞれ隣接する山脈からの雪解け水に由来するオアシス都市が古くから栄えていました。それらの都市が中国の史書に登場するのは前漢の時代からです。

匈奴討伐のためにソグディアナの大月氏国と手を組もうとした漢の武帝は、紀元前139年に張騫を西域へ派遣しました。張騫は苦労の末に月氏の都に辿り着いたものの、既に中継貿易で繁栄していた月氏に対匈奴戦に加わる意思はなく張騫の旅の目的は達せられなかったのですが、帰国した張騫がもたらした西域情報が武帝に西域経営を決意させることとなりました。匈奴を駆逐した武帝は紀元前121年頃に河西四郡(武威・張掖・酒泉・敦煌)を設置し、さらにタリム盆地周辺も勢力下に収めます。紀元前59年には烏塁城に西域都護府も設置されましたが、前漢の衰退に伴い覇権は匈奴に移ります。

後漢の明帝のとき匈奴討伐の一環として西域に赴いた武将班超は、91年にはクチャ(亀茲)を討って西域都護に任ぜられタリム盆地周辺を支配しましたが、後漢による西域経営も班超が30余年の駐留を終えて帰国してから数年で終わり、この地域は匈奴やクシャーナ朝の影響下に置かれることになります。

長い戦乱の時を経て、中国が再びタリム盆地周辺地域を支配するのは唐の時代。北方遊牧国家の主役となっていた突厥を攻めて西進した唐は640年に高昌国を滅ぼして安西都護府を設置し、さらに648年にはクチャを征服してここに安西都護府を移しました。しかし、唐の西域支配も北方遊牧民や南方の吐蕃との抗争、さらには唐国内の内乱で弱体化し、吐蕃による790年のクチャ、792年のトルファン制圧によって唐はタリム盆地から駆逐されることになります。

こうして安定した政権による交易路確保が困難になる一方で、アラブ人による海上ルート(海のシルクロード)が開かれたことにより、新疆を経由するシルクロードは東西交易のメインルートとしての地位を徐々に失っていきました。

これは懸壁長城の麓にあった群像の一部。張騫、霍去病(前漢)、班超(後漢)、玄奘(唐)からマルコ・ポーロ(元)、さらには林則徐、左宗棠(清)。しかし実際には、数えきれないほど多くの無名の人々が、漢代以前のはるか昔からこの道を行き来してきたことでしょう。

漢字

中国は漢字の国。日本のようにひらがなやカタカナといった便利な文字がないので、何でもかんでも漢字で表記することになります。これは、上海空港と飛行機の中で見掛けた漢字表記の数々。

左は「食品超市」。この「超市」というのはその後の旅の中で少なからず見掛けましたが、どうやらスーパーマーケットの直訳のようです。なるほどこれはわかる気がしますが、ファミリーマートが「全家」というのは意味不明です。

左の「丘比」がキューピー、右の「百奇」がポッキーというのは完全に表音文字として使用している例。一方、真ん中の「力保健」がリポビタンというのは音と意味とを巧みに掛け合わせているような感じです。

機内誌のページをめくっていて見つけた「鲍勃・迪伦」の文字を「なんだ、これは?」と思いながら眺めましたが、上の写真を見るとどうやら「Bob Dylan」のことのよう。これはアルバムのジャケットがなかったら絶対わかりません。本文の方は彼の代表作を三つとりあげた記事のようなのですが、それにしては「らしくない」文字を発見しました。音楽に関する記事の中の「重金属」と言えばたぶんヘヴィ・メタルでしょう。しかし、さすがにグランジは訳せなかったらしく、そのまま「Grunge」でした。

料理

旅の楽しみの一つはその土地の料理……ということになっていますが、私はあまり食い道楽ではない上にそれほど胃腸が丈夫な方でもないので、とにかくノーマルな食事であってほしいと祈るばかり。それでも、今回の旅で出た食事にはやはり場所によって特色がありました。それらを毎日朝昼晩と3食ずつ食べているわけですが、その全部をここで紹介するわけにもいかないので、夕食だけをピックアップしてみました。

Day1:機内食。ま、普通ですな。写っている缶ビールは「百威啤酒」、つまりバドワイザーです。

Day2:中華風しゃぶしゃぶ。薄〜いお肉は、すぐになくなってしまい、後はひたすら野菜鍋。新疆では羊肉が好まれるのですが、写っているのは丸皿が牛、角皿が羊です。

Day3:ピリ辛のラグ麺とトルファン料理。奥につるりときれいな麺があり、右手の黒い物体は巨大きくらげ。このきくらげは新疆にいる間、何度もお目にかかりました。なかなか美味です。

Day4:敦煌料理。ラー油系の赤さに対する学習が徐々にきいてきて、辛いものにはそっと手を出すようになります。それでもこの頃はトイレが近くなっていました。

Day5:家庭料理。嘉峪関は山東省出身者が多いので、辛さが控えめでおいしくいただけました。お腹の調子も戻ってきた感じ。

Day6:西安火鍋。Day2と同じじゃないの?ただし、タレは自分で調合するシステムでした。また、日本人向けの味付けもなされているようで、ウエイトレスさん(鈴木杏樹似のにこやか美人)も日本語を話していました。

Day7:「徳發長」での餃子宴。どれもおいしい!いくらでも食べられる!本当に、生き返る思いでした。張さんは「中国人は空を飛ぶものなら飛行機以外なんでも食べる」と言っていましたが、飛ぶ生き物に限らず多彩な具材が使われています。おかげでどれが何餃子なのかすっかり忘れてしまいましたが、餃子の外形はおおむね具材の形に作ってあるとのこと。なお、中国では餃子と言えば蒸し餃子を指し、日本のような焼き餃子は「鍋貼」と言って餃子とは認識されないそうです。

昼と夜はビール中心に何らかのお酒も飲みました。当地にはビールを冷やす習慣がないので、添乗員ナガタさんはレストランに着くたびに真っ先に「ビールは冷えているか?」を確認し、冷えていないとわかると申し訳なさそうな表情でその旨を我々に宣告するのが常でした。

  • 乌苏啤酒(ウルムチ)
  • 南疆啤酒(トルファン)
  • 西涼啤酒(敦煌)
  • 黄河啤酒(敦煌)
  • 山水啤酒(嘉峪関)
  • 青島啤酒(嘉峪関)
  • 雪花啤酒(西安)

ビール以外ではこんなのも。

  • 楼蘭ワイン(トルファン)
  • 多鞭亀甲酒(西安)
  • ???(西安)

買物

旅の楽しみの一つは、その土地の物産のお買い物……ということになっていますが、私はあまり買い物好きではない上に家の中は既にモノであふれ返っているので、ツアーのお約束である買い物タイムはぼーっと過ごすしかありません。それでも、今回の旅で立ち寄ったショッピング場所にはやはり場所によって特色がありました。そのうちのいくつかを以下にご紹介します。

こちらはウルムチのバザール「北園春」。果物のバザールで、この時期は乾燥果実が多いそう。干し葡萄なども豊富でしたが、何より目を惹いたのはいろいろな種類の棗でした。

ウルムチの民芸品店。玉とか絹織物とかがあったような気がしますが、旅の始めだけに皆さんあまり戦闘モードには入っておらず、振る舞われた「ラフマ茶」にほっこりしていました。高血圧にきくということだったので、実家の両親のために購入しました。

トルファンの民家にて。いろいろな種類の干し葡萄があって味もお値段もさまざま。ここのご主人も日本語が上手でした。

敦煌市内の夜光杯工廠で待ち構えていた、今回の旅(の買い物)のハイライトの一つである夜光杯。祁連山脈で産する黒玉から彫り出される緑色のグラスは月の光を透して妖しく輝き、唐の王維の「涼州詞」にも歌われています。

葡萄美酒夜光杯
欲飲琵琶馬上催
酔臥沙上君莫笑
古来征戦幾人回

なんだかしんみりくる詩ですね。

ご覧下さい、中華四千年の磁力がもたらすこの表面張力。このプレゼンテーションにはツアーの一行からも「おぉー!」という驚きの声が上がりました。この魔力に魅せられたからというわけではありませんが、私も夜光杯のグラスをお買い上げ。

敦煌からの5時間バスツアーの途中休憩で立ち寄った瓜州の売店に置かれていた沙漠人参。煮出してお茶にしてもよし、白酒(蒸留酒)を割ってもよし。これまたお買い上げ→実家送りに。

西安の兵馬俑坑博物館の売店にて。二千年の眠りを起こされてこんなふうに土産物にされるとは、兵士たちは夢にも思っていなかったことでしょう(←嘘です)。

当初予定になかった「陝西省美術博物館」の入館証(添乗員さんも行くまでどういうところかよくわかっていなかったと思われます)。最初は芸術性豊かな絵を見せられて、ついでさまざまな宝玉の彫り物が並ぶ狭い一室へ。さすが中国、宝玉の大きさも彫りの細かさも並大抵ではありません。特に水胆瑪瑙という中に水が入った紫瑪瑙を巧みに彫った像などは感心するばかりでしたが、それにしてもおかしいな、我々の他に誰も客がいないのはどういうこと?と訝しんでいると、後から後からその部屋に入ってくるのは全員日本語を巧みに操る館員さんたちで、そこはいきなり商談会場に早変わり!激しいセールス攻勢に一同たじたじです。ただし売り込み態度はあくまで紳士的で、誰も何も買わなかったにもかかわらず最後は笑顔でお別れ。いや、一時はどうなることかと思いました。

しかし、中国を甘く見てはいけません。怒濤の宝玉攻勢を乗り切った安堵感がツアー参加者の気を緩ませたのか、続くシルク絨毯屋さんではバナナの叩き売りもかくやと思わせる気合の売り口上に購入者続出。中国商法恐るべし。なお、ツアー参加者でこうしたものの買い物に慣れている方の言によれば、確かに西安で買うシルク絨毯はそれなりの品質のものがかなり安く手に入るのだそうで、買い物としては決して悪くないそうです。私は買いませんでしたけど。