帰国

2003/01/03

バンコクからはたくさんの日本人たちと合流することになりましたが、彼らの姿にとても残念な思いをしました。係員の応対が遅いと悪態をつく年寄り、タイ人のスチュワーデスに親切にされてもありがとうともいわない肥満の男、飛行機の中で聞き分けなく騒ぐ子供たち、なにかというと母親に対してキレてみせる茶髪の若者。どうして、皆そんなにぎすぎすしているのだろう。せっかくの美しい日本語を、なぜもっと大切に話そうとしないのだろう?ミャンマーの1週間を穏やかに過ごした心が急速にささくれだっていくのがわかります。それでも、成田空港の手前の雲海上の夜明けは、たとえようもなく美しいものでした。

きりっと冷えた東京の空気の中を帰宅してゆっくり荷を片付けているうちに、窓の外は雪模様になりました。

参考情報

歴史

ミャンマーの歴史については前回の旅の記録にも付記しましたが、まとまったテキストはないものかと探していたら、バガンの空港で右の本を見つけました。D. G. E. Hall著の「BURMA」。記録が残る前の時代からバガン王朝の勃興、シャン族の侵入、モン族の覇権、タウングー朝の興隆、西欧人の来訪、モン族の反撃とコンバウン朝の支配、英国植民地時代、日本による占領、そして戦後の独立までが比較的平易な文章で綴られた、コンパクトなペーパーバックです。まだ途中までしか読んでいませんが、ビルマ人の故地はなんとゴビ砂漠とチベットに挟まれた甘粛省だということも新鮮な発見でしたし、バガン王朝のセイロン(スリランカ)との宗教的・文化的なつながりの深さも驚きです。

そういえばセイロンとの関係では、タイのエメラルド仏はセイロンで作られたものという説があったことを思い出しました。南伝仏教の本拠地としてセイロンが東南アジア諸国にもたらした影響は、同国を内戦の国としか認識していない現代の日本人の想像をはるかに超えています。確かに調べてみると、シンハラ人とタミル人の争いは紀元前から続いているものでこれ自体驚きですが、カルタゴで有名なフェニキア人の航路がセイロンにまで伸びていたことからすると、この大きな島はインド洋の重要な交易拠点としてその頃から認識され、経済的にも豊かな国だったのでしょう。

また、たまたま見たテレビで中央アジアのトルファンのベゼクリク千仏洞が紹介されていたのですが、わずかに残された壁画に「大きな目をしたビルマ人の大使」の図が描かれていたのを見てびっくりしました。ベゼクリク千仏洞が造営された時代(6〜14世紀)からみて、おそらくこの大使はバガン王朝が派遣したものでしょうが、アジア世界の政治・経済・文化の交流のスケールは、島国の感覚では計れないものがあります。

なお、バガンのホテルに掲示されていたバガン王朝の系図が、この記録や前回のバガン訪問の記録を読む際の役に立ちそうなので、ここに掲載することにしました。

ガイド

旅の手配は、前回と同じく「Imperial Amazing Green Travels & Tours」に依頼しました。

ガイドのチョチョルィン(Cho Cho Lwin)さんには、今回も大変お世話になりました。正直、私でもちょっとハードに感じる行程が続いたのですが、チョチョルィンさんは全行程を通して笑顔とユーモアを絶やさず、最後まで完璧なガイドぶりでした。最後にご自宅に招いていただいたのは望外のことでしたが、それがなくても十二分に楽しい旅を続けることができたのは、チョチョルィンさんの巧まざる気配りのおかげです。

ところで、軍政ということで敬遠されているのか不況のせいなのか、日本からの渡航者はここのところあまり多くないため、基本的に日本人観光客は歓迎されますが、中にはひどいお客もあるようです。例えば、男性客から女性を買える場所を聞かれた日本語ガイド(チョチョルィンさんの同僚)がやんわりと「知らない」と答えたところ、後からアンケートに「あのガイドは知識が不足している」と書かれてしまったためにしばらく会社から仕事がもらえなくなってしまったなどといった話も聞きました。日本人の買春ツアーの悪評はアジアのいたるところで聞きますが、よりによってミャンマーにまで下衆な欲求を持ち込んでもらいたくないものです(ほかの国ならいいというわけでは、もちろんありません)。

通貨

前回のミャンマー旅行の際の交換レートは1USドル=500チャットでしたが、今回は1USドル=800チャットでした。昨夏には1USドル=1,000チャットまで下落していたのですが、若干持ち直したのでしょうか?

それにしても、チョチョルィンさんの話によると6年前は1USドル=180チャットだったそうですから、これではチャットで貯金などできたものではありません。しかしそれならドルで持てばよいかというと、ミャンマーでは一般市民が外貨を私的に所有することは禁じられているようなので、そういうわけにもいきません。結局のところ、欲しいと思うものがあったときは「とりあえずがんばって買う」というのが正解で、後でいらなくなったときに中古で売りに出しても、元がとれるどころかより高値で売れる可能性が高いのだそうです。

ミャンマーの日本車

ご多分にもれず、ミャンマーでも実に多くの日本車を見掛けます。しかしその値段は信じられないほど高く、新車で10万ドル、中古車でも3万ドルとのこと。ミャンマーにも国産車はあるものの、安くないし人気もないのだそうです。

そんなわけで我々日本人観光客は町中のいたるところで日本語を見掛けることになります。だいたい、飛行機を降りて空港の建物まで移動するバスの中にお降りの方は、このボタンを押して下さいと書かれてあってまずひっくり返りますが、その後も「自動扉」「路線バス」なんてのはざら、日本のバス会社の固有名詞はもちろん、西武バスのレオマークまで見掛けてしまいました。ただ、一般車のドアに描かれていた下の写真のようなアヤシイ日本語(?)もあったりすると、これは一種のファッションなんじゃないだろうかと思えてきます。

……「ランプ付きス大全之」って、何だ?