敦煌 I - 玉門関 / 漢代長城

2011/05/03

朝、目を覚ますと列車は就寝時と変わらぬペースで疾走を続けていました。

こちらは進行方向に向かって左側の景色。からからに乾いています。

こっちは右側。これが「上に飛鳥無く、下に走獣無し」(大慈恩寺三蔵法師伝)と言われた莫賀延磧なのでしょうか。

トルファンから8時間半で柳園駅に到着しました。ここは一時期「敦煌駅」と名前を変えていたところです。

駅舎の上には立派な壁画があり、飛天の姿が優雅です。ここで合流した現地ガイドは、大相撲の白鵬関に似た感じの李強さん。駅前の食堂でお粥や饅頭中心の朝食をとったのですが、この食堂のお手洗いも中国文化(?)を強く感じさせるつくりになっていて、皆さんその話題で持ち切りでした。さて、食事を終えたら柳園駅から敦煌市内まで130km=2時間のゴビ灘の中の道をバスで移動します。ゴビとはモンゴル語で「沙漠、乾燥した土地、礫が広がる草原」を意味する言葉ですが、車窓から見えるのは最初は鉄分を多く含む黒ゴビの起伏に富んだ景色、やがてそれが黄ゴビの平原に変わります。時折見られる植物はラクダ草、甘草、タマリスク。寒暖の差が極端で「ストーブを囲んでスイカを食べる」という言葉もあるくらい、などと李さんが甘粛省の地理・地勢についていろいろと解説してくれるのですが、旅に疲れた皆さんは、がたがた道に揺られているにもかかわらずほとんどが爆睡していました。

やがて綿、トウモロコシ、葡萄の畑(ツルを巻き付ける斜めの木材が特徴)を抜けて敦煌市内にようやく到着し、いったんホテルに立ち寄って荷物を預けました。ホテルの出入口ではきれいなお姉さんたちが立ち並んでお客様をお出迎え。皆さん、飛天並みにスタイルがいいことに驚きます。

まずは、市の中心部から3kmほど離れたところにある白馬塔へ向かいます。西方の亀茲(クチャ)の高僧・鳩摩羅什(कुमारजीवクマーラジーヴァ:350-409)が敦煌にやってきたときに経典を担がせていた白馬がここで死に埋葬されたことを受けて建てられた塔で、この回廊の突き当たりには観音菩薩が授けた白馬が勤めを終えて天馬となって飛び去る様子が描かれていました。史実の上での鳩摩羅什は、インド出身の鳩摩炎と亀茲国王の妹のジーヴァカとの間に生まれ、長じて僧としての名声を博していましたが、河西回廊を支配した前秦の武将・呂光による亀茲征討(西暦384年)によって身柄を確保され、そのまま呂光が建てた後涼で18年間を過ごしました。その後、長安を中心とする後秦による後涼侵攻に伴い鳩摩羅什は長安に移り、そこで行ったのが大乗経典の漢訳です。これは玄奘三蔵による漢訳の150年前のことであり、鳩摩羅什訳を旧訳、その旧訳を批判しつつ玄奘が行った訳を新訳と呼んで、2人をあわせて二大訳聖とされています。

……と言っても、白馬塔自体はぽつんと高さ12mの煉瓦の塔が建っているだけ。下部は焼き煉瓦、上部は日干し煉瓦で、漆喰で固めてありますが、これは元代に再建されその後たびたび修復を受けたもので、もとは寺院の一部であったそうです。

この白馬塔を含む一帯は敦煌故城(沙州城)で、バスの中から版築による城壁の跡を眺めることができましたが、往時を偲ぶよすがはこれを含めてごくわずか。現在の敦煌市街が作られたのは西暦1725年、すなわち清代です。

午前の行程をここで終えて市内のレストランでの昼食は、古いキリンビールの味がする「西涼ビール」を飲み、辛いものばかりではないおいしい食事にほっとしました。特に甘い大学芋は、熱々の表面の溶けた砂糖を水につけて固めていただくのが美味でした。

昼食の後は、敦煌市街の西北90kmにある玉門関に向かいます。これはその途中で遠くに見た倣宋古城で、実は日中合作映画『敦煌』(1988年公開)の撮影のときに作られたセットですが、それがそのまま観光名所として残っているのでした。あの中で20数年前に、西田敏行や佐藤浩市や中川安奈さんが暑さに苦しみながらも撮影に臨んでいたわけです。なお、映画の原作である井上靖の『敦煌』は西暦1036年頃、漢人政権である曹氏帰義軍のもとで独立していた敦煌(沙州)が李元昊率いるタングート系の西夏の支配下に入るまさにそのときを舞台として、多数の経典が莫高窟に匿蔵されることになった由来を描いています。当時の中国は北宋なので「倣宋古城」というわけ。

これは道中で見掛けた烽燧(烽火台)。紀元前121年に河西回廊から匈奴を駆逐し、同115年の張騫の2度目の西域行の後に、漢はこの地域の直接経営に乗り出しました。そこで置かれた四郡が、東から順に武威、張掖、酒泉、そして敦煌。これら四郡のオアシスには内地から入植者が入って町が築かれていき、漢代の敦煌には最盛期に3万人をも超える人口があったと言いますが、そうした入植者たちを匈奴の侵攻から防ぐために多数の望楼や砦が築かれました。烽燧をつなぐ烽火の通信は、敦煌から長安まで1日しか要しなかったとも言います。

ゲート(?)の向こうに見えるのが玉門関。こちらは天山南路に通じ、南の陽関は西域南道に通じています。そしてここが、漢の時代の中華世界の西の果て。前漢の武帝が汗血馬を求めるために派遣した将軍・李広利は、遠征に失敗して多くの将兵を失い、激怒した武帝の命で玉門関の外・敦煌塞(長城)に留め置かれたという話が伝わっています。

強い西風の中にたたずみ、今では小方盤城と呼ばれる玉門関遺址。25m四方、高さは10m。これ自体は唐代の遺構で、玉門関に駐屯していた人々の事務所であったそうです。

疎勒河沿いに西へわずかに進んだところにある漢長城遺址。遠くに烽燧も見えています。

正面から見ると長城のつくりがよくわかります。すなわち、葦の茎やタマリスクのそだ束と砂礫の層とを交互に重ねて積み上げたもので、砂礫に含まれる塩分が凝固するために堅固な壁となるわけです。この地域の長城が2000年以上の時を超えてなお比較的よく残っているのは、長城が東西に伸びており、このために西からの強風の侵食作用を受けにくかったためでもあります。

西暦1907年にここを訪れた探検家オーレル・スタイン(英)も見たであろう烽燧。彼の旅行記の中には、次の記述があります。

3月7日の夕刻、むきだしの砂礫の台地を横切って進んでいるとき、われわれが歩んでいた隊商路から1マイルほど外れたところにある小さなマウンドが私の注意を引いた。たどりついてみると、喜ばしいことに、それはかなり保存状態の良い望楼であった。日干し煉瓦で堅固に築かれ、高さは23フィートに達していた。

こちらは烽燧の近くにあった烽火の材料。日本人の無常嗜好にもマッチする、いかにも歴史のロマンを感じさせる遺物ですが、しかし自分が前漢の時代に生きていて、ある日いきなり、都から遥かに離れたこの烽燧での勤務を上司に命じられたとしたら……。

歴史的な遺物をしみじみと眺めた後は、普通に蜃気楼が揺らめいている中をバスで移動して敦煌市街の南5kmにある鳴沙山へ向かいました。

砂丘が広範囲に連なっている景観には感激しました。沙漠と言えばやはりこうでなくては!この砂丘は一見するとただの黄土色ですが、実は赤・黄・緑・白・黒の五色の砂からなっています。

この日は風が強くて砂ぼこりが舞い上がっていましたが、その中を3、4頭で1組のラクダに乗って砂丘の上まで登りました。ラクダつかいが「チョウ!」と声を掛けると腹這いになっていたラクダはおもむろに起き上がるのですが、そのときにかなりの縦揺れがあって鞍の手すりにしっかりしがみついていないと振り落とされてしまいそう。ラクダは1頭ごとに性格が違うようで、最初に私が乗ったラクダは温和なのに、隊列の先頭のラクダは不平ばかり言ってなかなか言うことを聞きません。そのために先頭のラクダに乗った年配のツアー客はずるずると落ちそうになってしまい、隊列の中で比較的体力がありそうに見えたらしい私が復路は先頭のラクダに乗らされました。実は、こういうこともあろうかと出発前に、モロッコでラクダに乗った経験があるボル友のY女史にキャメルライディングの極意を聞いたのですが、返事は「コツはただラクダを愛することです」。しかしラクダの顔はあまりかわいくありませんし、ところどころ毛皮がずるむけだしで、とてもラブリーな生き物とは言えません。ただ、サハラ砂漠のラクダがひとこぶラクダであるのに対しこちらはふたこぶですから、本当はそれだけでもずいぶん乗りやすくなっているのでした。

強風のために鳴沙山のてっぺんまでは上がれませんでしたが、その肩のようなところまで行って沙漠の広がりを眺めてから、今度は砂丘に囲まれた窪地のような場所にある月牙泉へ移動しました。「月牙」とは三日月のことで、その名の通り三日月の形をした泉は漢代から遊覧地として知られていたそうです。おそらくその水源は、敦煌の南に連なるアルトゥン山脈の雪解け水です。

ふと見ると、周囲の砂丘の斜面には梯子が階段がわりにしつらえられており、その上から橇に乗って斜面を勢いよく滑り落ちてくる観光客の姿も見られます。幸い30分間の自由時間になっているので、これは挑戦しない手はないだろうと梯子の下の係員に20元を支払い、同じツアーの若者2人と共に息を切らせながら斜面を登りました。

そりを貸し出してくれる係員のいる中腹からの眺めはなかなかの絶景ですが、見下ろす斜面はかなりの急角度で、本当にここを滑り降りるのか?と不安になるくらい。しかし、ここまできてためらっているわけにもいかず(20元も払ってしまっていることだし)覚悟を決めて箱型のそりに乗り、係員に背中を押してもらいました。

方向もスピードもコントロールすることができないまま、滑っているというよりは落ちているという感覚。ぐんぐん下界が近づいてきて、やがて傾斜が緩やかになるとともにそりは自然に減速してくれました。あぁ、助かった……しかし、面白かった。

月牙泉の近くに建つ望楼「月泉閣」は上の階まで上がることができますが、時間の都合もあって私は外から眺めるだけ。ただし、比較的近年に建てられたもののようです。

夜は、希望者を集めて李さんが敦煌市街散策に連れて行ってくれました。市の中心のロータリーに立つ石像は琵琶を頭の後ろに構えた反弾琵琶像。帰国してからギターでやってみましたが、指板を前の方に向けたこの姿勢はかなり無理があります。そこから徒歩わずかの商業一条街は露店が賑やかで、いかにも異国の夜という感じ。売られているものは食料品や装飾品、絵画や彫刻などさまざまですが、見た目はとてもきれい、しかし品質は李さん曰く「あいまい」です。あいにくこの頃お腹の調子が良くなかった私はひと通り見て回ったところでホテルに引き揚げましたが、数人のツアー客は露店で飲み食いをして李さんの指導のもとに羊の脳や目玉を食したそうです。翌日その写真を見せてもらいましたが、丸ごと焼いた状態でテーブルにどんと出された羊の頭に手をつけるのは、ちょっと勇気がいりそうでした。