塾長の渡航記録

塾長の渡航記録

私=juqchoの海外旅行の記録集。遺跡の旅と山の旅、それに諸々の物見遊山。

チャイティーヨー - インレー湖

2002/12/30

朝は5時に起床。シャワーの蛇口をひねると、すぐに熱いお湯が出てきて感心しました。以前、ソウルに出張したときには、あれだけの大都市のホテルだというのにお湯も出なかった苦い経験があるのですが、ミャンマーではどこでもちゃんとお湯が出てきます。ホテルのレストランで、かつてヤンゴンの立派なホテルで働いていたという物腰の柔らかな話し好きの給仕さんにサーヴしてもらいながらトーストと卵、コーヒーの朝食をとり、チェックアウトの手続の後に外に出てみると、ちょうど東の空が明けてくるところでした。

仏塔での一夜を終えて帰路に就く人々が参道をぞろぞろと歩いている様子は、原宿や六本木の朝みたいです。その参道の路面にはいたるところに赤いしみのようなものがありますが、これはミャンマーの人が好んで噛んでいるコォン(キンマの葉に肉桂、タバコの葉、石灰、キンマの実、香料等を混ぜて巻いたもの)の液を吐いた跡で、コォンはミャンマーの人にとっては一種のガムのようなものなのでしょう。コォンを噛んだときの刺激と清涼感は、暑いこの国ではとても愉しみのようです。

ここで改めてチャイティーヨーの由来について、チョチョルィンさんから聞いた話を整理しておきます。ただし、私の聞き違いや記憶違いもあるかもしれず、正確さは保証できないことをあらかじめお断りします。

昔、釈迦の頭髪6本がミャンマーの修験者6人に伝わったが、そのうちこの地方に住む2人はその聖髪を自分の髷の中に入れて肌身離さず持っていた。そのうちの1人(彼が修行していたのが、カラスの口の洞窟)が死ぬ間際、もう1人の聖髪保持者に自分の聖髪を託し、それを自分の頭と似た形の石の上に祀るよう遺言した。残された修験者は適当な石を一所懸命探したが見つからず困っていたところ、帝釈天が助力してくれて川の中から山の上まで丸石を引き上げてくれた。それが現在の黄金の石である。

この話には後日談があります。遺言を残した修験者の娘は、父が大事にしていた聖髪を祀る仏塔にお参りするため苦労の末に山上に辿り着きましたが、そこで息絶えてしまいました。その姿をかたどった人形(昨夜見た横たわる女性の人形)は、自分の病むところをさすると楽になると言われています。さらに、この修験者の妻が生んだ2匹の竜が……というカラスの口の洞窟にまつわるお話もあるのだそうですが、そこまでの大河ドラマになるともはや覚えきれませんでした。

さて、行きは苦しかった登り道も下りとなればラク。ひんやりした空気の中、あっという間に参道を下りきってトラックバスのターミナルに到着し、そこから行きと同様トラックバスの助手席に乗せてもらって門前村に降りてロジャーと合流しました。今日は基本的に移動日で、車でヤンゴンまで戻り、飛行機でヘーホーに移動して、そこからインレー湖畔のホテルへ入ることになっています。

ロジャーの運転する車はチャイトーの町を抜けていきます。ずいぶん賑やかな町で、車も自転車も、2頭だての牛車も犬もあちこちにおり、行き交う車の間を逃げまどう子犬と「うちの子はどこへ行ったのかしら」という表情の母犬を微笑ましく眺めていましたが、中型の赤犬が車道のすぐ横をとことこと前方へ走っているのが危なっかしいなと思っていたら案の定、我々の車の前方にすっと寄って来て視界から消えた途端「キャイン!」という鳴き声が聞こえてきました。あの赤犬を轢いたんじゃないのか?と思って私は愕然としましたがロジャーは表情一つ変えず運転を続けています……ロジャー、恐ろしいヤツ。

チャイトーとバゴーの間の道はぎりぎり2車線の幅で、路肩は赤土がえぐれているため、すれ違いはなかなかスリリング。対向車があっても、お互いにぎりぎりまで舗装路を進んで相手が路肩に逃げてくれるのを待つ、一種のチキンゲームが繰り広げられるからです。おまけにあちこちでパンクしたり故障したトラックが停まっていて、眉間に皺を寄せた運転手が近くにうずくまっていたりするから、もう大変です。

4時間のドライブで着いたヤンゴンの空港の国内線の待合室でミャンマーの歌番組(良質なポップスでギタリストとシンセ奏者がなかなか上手)を見ていると、チョチョルィンさんが夫婦らしき日本人のカップルの女性の方を指さして「あの人は女の人だと思いますか?」と聞いてきました。確かにショートヘアで背もすらっと高いのですが明らかに女性なのでそう言うと「でもあの人のロンヂーは、布地も男ものだし巻き方も男巻きですよ」。ミャンマーの人は、男も女もほぼ全員がロンヂーと呼ばれる巻きスカートを巻いています。これは筒状の布を左右からたくしこんで腰で留めるのですが、男性の場合はチェックなどの模様の布で身体の正面に左右からの布の巻きこぶを作るのに対し、女性の方は無地または柄ものの布を用い身体の横に布地のラインが真っすぐ走るように留めることになっています。なるほどと感心していたら、その女性がトイレから帰って来たときに夫らしい男性に「係の人に巻き方を直されちゃった」と報告していました。ロンヂーを買って巻いている日本人観光客はけっこう多いのですが、男女の違いまでわかった上で着用している人は少ないかもしれません。気をつけたいものです。

双発のプロペラ機で1時間ほどのフライトの後にヘーホー空港に到着し、若くてハンサムなインダー族の運転手の車に乗ってインレー湖へ移動しました。インダー族はインレー湖に住む民族で、12世紀のアラウンズィトゥ王の治世にこの地方を征服するため南方の海に面した町ダーウェから連れてこられてそのまま定住したそうですが、インダー族同士の会話はチョチョルィンさんにも理解できないそうです。

シャン高原のゆったりした起伏の中を山腹を絡むように走る舗装路を進むと、大きな峡谷らしき地形が眼前に広がり、その奥にインレー湖が見えてきました。南北22km、東西12kmの細長い湖はとても美しいところだと聞いていましたが、その湖を遠望するこの地形からして非日本的なおおらかさで感動的です。道はやがて湖の西岸近くの森の中を南に向かって抜けるようになり、やがて湖畔のホテルHU PIN HOTEL Inle Khaung Daing Village Resortに到着しました。

ちょうど日没の時間帯で、湖の上からサンセットを眺めましょうということで急いで小さな船着き場に走り、エンジン付きのボートを呼んで湖の上に出ました。舟は縦一列に椅子が並んでいる細長いもので、船外機の快調な音とともに水しぶきをあげながら湖の中央まで飛ばしてくれましたが、わずかの差で夕日は山の端の下に隠れてしまっていました。しかし、それでも船外機を止めて静かになった舟の上から見る夕暮れの湖の景色は十分に美しく、心が洗われるようでした。

ホテルに戻って預けていた荷物を受け取り、自分の部屋い入りました。部屋は湖上のコテージで、一人で泊まるには立派過ぎるくらい広く、調度品のほとんど(バスタブも)が木でできていて落ち着く作りです。

しばらく休憩してから、ロビーでチョチョルィンさんと落ち合ってレストランへ。今日は中国人の団体のオーダーでシャン地方の民族舞踊が披露されるそうで、これはラッキーと喜んだのですが、出てきたシャンの料理を見て驚きました。赤い漆の丸い台にいくつかの副菜の皿が乗り、餅米が主菜として供されるこのスタイルは、乗っているものこそ違え、チェンマイで食べたカントーク・ディナーとほぼ同じです。そういえばステージ上で繰り広げられている民族舞踊も、手や腰の動きが美しい女性の群舞や剣・火を使った勇壮な舞など、チェンマイで見たものと類似している様子。最後に観客の何人かをステージ上にあげて皆で踊るところまで一緒です。

▲左が今回出てきたシャンのディナー。右はチェンマイでいただいたカントーク・ディナー。

しかし考えてみると、これは不思議でもなんでもないかもしれません。チェンマイのカントーク・ディナーはラーンナータイ王国で洗練されていったものですが、もとをただせば雲南からラオス、北タイ、ミャンマーにかけて国境を越えて分布する山岳民族の文化に由来するものですし、そもそもシャン族も雲南からやってきたタイ系民族。それにラーンナータイ王国がシャン地方を勢力下に置いたり逆にタイ北部がミャンマー(タウングー朝)の属国になっていた時代もあって、相互に文化的影響を与えあってきたのですから。

打楽器中心の音楽をバックに黄金の孔雀のような扮装の男女で踊られる激しい踊りの後に、顔も首も長い獅子舞のようなものが出てきて、お客が手にした紙幣をひとしきりむしりとって回ったらショーは終わり。我々も食事を終えて、それぞれの部屋に引き上げました。