塾長の渡航記録

塾長の渡航記録

私=juqchoの海外旅行の記録集。遺跡の旅と山の旅、それに諸々の物見遊山。

帰国

1999/01/01

飛行機の中で新年を迎え、成田空港に6時50分到着。初日の出はここで拝むことになりました。

空港からリムジンバスで新宿に出て、これで足掛け7日間の旅は終了です。

参考情報

装備

靴は軽登山靴がベストですが、スニーカーで登っている人も少なくなく、ある程度靴底のフリクションがきくしっかりした靴なら大丈夫そう。

衣類に関してみると、赤道直下とは言っても標高4000mを超える山なので、ラバン・ラタより上ではそれなりの防寒対策は必要です。特に今回のように雨期に登る場合は、防水を兼ねてゴアテックス製のヤッケが必須です。我々の場合も頂上で風と雨に悩まされましたが、体感温度は0度を下回っていた可能性があります。

▲キナバル山頂で上半身裸になって気勢を上げる地元(?)の若者。普通の人はまねをしてはいけません。

頂上で御来光を見るためには(雨期でも雲がとれる朝方を狙うためにも)深夜に小屋を出発することになるので、ヘッドランプは必携。手に持つ懐中電灯を使う者も見掛けましたが、ロープを伝う場面があるので勧められません。

なお本文にも書きましたが、登山道の途中の給水施設は使わず、ペットボトルのミネラルウォーターを持参することをお勧めします。

通貨

マレーシアの通貨単位はマレーシアドルで、現地ではRinggit(RM:発音は「リンギッ」と最後の「t」を飲む感じ)と呼びます。補助単位はセントで、100セント=RM1.00。交換レートは、1998年12月26日の円→RMがRM1.00=30.99円、同31日のRM→円がRM1.00=29.92円でした。

物価水準については、いくつかは本文中にも紹介しましたが、わかりやすいところではタクシー代(初乗り相当)がRM6.00=約180円でした。これを基準にすれば日本の3分の1というところですが、当然買うものと場所によって相場感は変わってきます。また、公園施設などでは外国人料金はマレーシア人料金の2倍というのが通例のようでした。

言語

マレーシアの国民は最低3種類の言語(マレー語、英語、自身のネイティブの言語(カダザン語や中国語など))を解する、というのがガイドのスコラの説明でした(スコラ自身はカダザン人)。旅行者にとっては英語さえ使えれば用は足りますが、現地の人々の発音のわかりやすさ・にくさは、個人差が非常に大きいようです。

果物

オープンマーケットで買った果物はパパイア(RM2.00)、スターフルーツ(五つでRM1.00)、ラングサット(Langsat:20個くらいでRM2.50)の3種。ドリアンも売っていましたが、ホテルに持ち込む訳にはいかないので断念しました。また、昔々バリ島で食べて大好きになったマンゴスチンは、今回見る機会がありませんでした。

パパイアは縦に半分に割ってスプーンですくって食べましたが、十分に甘くとても美味でした。スターフルーツは輪切りにした断面がきれいな星形をした変わった果実ですが、シャキシャキした歯触りが面白いものの味は薄くあまり甘味が感じられません。これに対してラングサットの方は、ギンナンを大きくしたような見た目に似ず柔らかな果皮を剥くといくつかの房に分かれた半透明の果肉が現れ、ぷるぷるとした歯触りでライチのようにさっぱりとおいしく、この季節のみのものではありますがお勧めできるものでした。

これらのほか、レストランなどでは必ずスイカが出るほか、マンゴとパイナップルが加わることもあります。こちらのスイカは日本のそれに比べると甘みが少なく、ちょっとがっかりすることが多いように感じました。

歴史

State Museumにいられた時間が少なかったのが残念ですが、ここで駆け足で仕入れた知識によれば、28000年前に東海岸の洞窟に人が住み着いたのがこの地方の人間の歴史の始まりとのことです。

14世紀には中国人の遠征が行われましたが、15世紀からイスラムが浸透しはじめ、やがてブルネイのスルタンがボルネオ島はもとよりマラッカからルソンまで影響力を及ぼしました。西欧人の到来は1577年のスペイン人によるブルネイ攻撃に始まり、17世紀以降、オランダとイギリスが交易拠点を開設するようになりました。19世紀にはイギリス人が統治権をスルタンから譲り受け、サバ州一帯は北ボルネオ会社の統治下に置かれるようになります。このときの首都がサンダカンです。

1942年から1945年まで日本軍の軍政下におかれた後、サバは再度イギリスの統治下に置かれましたが、1963年にインドネシア及びフィリピンとの政治的(及び軍事的)緊張の中でマレーシアが成立し、サバはサラワクとともにその一部に組み込まれました。しかしその後もしばらくは、マレー人中心のマレーシアにあって華人の多いサバは不安定な年月を重ねたようです。