カトマンドゥ - ダルバール広場
2018/04/11
ネパール最初の朝は、広くて清潔な部屋での目覚め。
朝食は1階のレストランでビュッフェスタイルですが、洗練されていて大変おいしいものでした。ついでホテルの中庭で当面の手順についてのブリーフィングが行われました。ここでの指示事項を簡単にまとめると、次のようになります。
- 明日の出発時は、ルクラからそのままスタートできるような山歩きの格好をすること。飛行機に預ける荷物の重量制限が厳しいので、できるだけ着込んだ上で、重みのあるものを身に着けること。
- ポーターに預けるものには、必ずネームタグをつけること。
- 帰国時の衣服などトレッキングに不要なものは、ホテルに預けていく。
- パスポート、クレジットカード、日本円は、コスモ・トレックに預ける。
- この後、各自の部屋で装備のチェックを行う。足りないものがあれば、市内で買える。
- 市内に出るときには、マスク、サングラス、それに手を拭けるものがあればベター。
- 買い物は、値段を5倍くらいにふっかけてくる店もあるので注意(ただし定価FIXの店もあるので一概には言えない)。
ブリーフィングの後、しばらくしてバラサーブと水生さんが部屋にやってきました。一通り装備をチェックしたバラサーブは登山装備についてはOKを出してくれたのですが、道中ポーターに預ける荷物を収納するバッグについて、持参したモンベルの75リットルザックを使うのは「もったいない」ということで、市内でダッフルバッグを購入することを勧められました。
……というわけで全員でまずはお買い物。ルピーが足りないと思う者のためにまず両替所に向かいましたが、なるほどこれはすごい埃!スモッグなのか土埃なのか区別がつきませんが、マスクがないと少々つらいものがあります。
ついで希望者はSIMカードを購入し、私はバラサーブの指示通りにダッフルバッグをLサイズとXLサイズの二つ購入しました。これは、トレッキングの道中でバッグが地面に置かれて汚れる(泥に加えてヤクの糞も)ためバッグを二重にして使用し、最後に外側(XL)は捨ててしまうことを想定したものです。バッグには「The North Face」と書かれていますが、値段は二つ合わせて2,900ルピーと激安でしたから本物とは思えません。
そして昼食をとりながら、ここで改めて自己紹介となりました。
エベレスト隊は、ベテランクライマーでビール好きの泡爺、どこまでも明るいキャラクターのタムさん、紅一点の登山ガイド沙織さん、クールな弁護士かっつん、ジャニーズ系ハンサムのヒロくん。泡爺は70歳手前ですが、タムさんは40代、残りの3人は30代。その若さで2カ月近い休暇とウン百万円の費用を捻出できるというのがまずもって凄いですし、エベレストに登るためには直前1年以内にせめて6000m以上に登っていなければならず、この皆さんもそれぞれにデナリやアコンカグア、アマ・ダブラムを経ての今回のチャレンジですから、時間的にも金銭的にも人生のかなりの部分を賭けてここに来ていることになります。
一方ロブチェ隊は、海外登山経験豊富なアッキーさん、邪気のないトラブルメーカー(であることが後に判明した)ちえさん、ピアニストのみこママ、長身美人のかみちゃん、山にかけては人一倍情熱家のひろみさん、新婚の旦那を日本に残置してきたみのっち、そして私。さらに、独特の人懐こいキャラがやがて隊のマスコット的存在となる71歳のトコちゃんがカラ・パタールを目指すことになっているほか、若い登山ガイドのいっしーが近藤・杉本両ガイドの補助的な立場ながら自費参加しています。
ここで皆が自分のニックネームを披露しあったのは、参加者同士が年齢の違いなどを意識せず対等の立場で隊の一員になれるように、という隊の方針に基づくものです。ちなみに近藤ガイドは「バラサーブ」または「ケンケン」、杉本ガイドは「水生みずきさん」、そして私は「あんちゃん」……。
昼食後、希望者は水生さんの引率でカトマンドゥの市内観光に出掛けることになりました。まず着いたのはタヒティ・チョーク(「チョーク」は交差点のこと)で、ここにはマニ車に囲まれたストゥーパがあります。もともとネパールの国教はヒンドゥー教(現在は国教は設定されていません)で、人口の8割がヒンドゥー教徒であり、さらにカトマンドゥ盆地の文化の基層にはインド由来でヒンドゥー教の影響を受けているネワール仏教があるのですが、少なくともタメル地区を歩く限りはむしろチベット仏教の気配が優勢で、市内の至るところに五色のタルチョがはためいています。
近くのカテシンブー・ストゥーパはやや大きめ。上部には仏教の五眼(肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼)のうち仏陀がもつ仏眼をもって四囲を見守り、邪気を払うという有名な「ブッダアイ」が描かれています。この「ブッダアイ」はこの後のトレッキングの道中でもたびたび目にすることになりましたが、レコードのジャケットでもこのモチーフを借用したものがありますね。
この日の市内観光のメインはダルバール広場です。「ダルバール」とは「宮廷」「王宮」といった意味で、このカトマンドゥ盆地内にダルバール広場と呼ばれる広場はカトマンドゥ、パタン、バクタブルの3カ所あります。これは、三都マッラ朝と呼ばれる三王国並存の時代があり、競い合うように王宮や寺院を建設したことによるそうです。
もともとマッラ朝(13-18世紀)は盆地の東にあるバクタブルに都を置いていましたが、最盛期の王ヤクシャ・マッラの死後に起きた王家の内紛により1484年にパクタブルからカトマンドゥが分離し、1619年にはカトマンドゥからパタンが分離して盆地内は三分されました。これらネワール人による王国を倒して1768年にカトマンドゥ盆地を統一したのが、盆地外の山地に住むヒンドゥー教徒(パルパテ・ヒンドゥー)のゴルカ朝で、この王朝は2008年の王制廃止まで続いたネパール最後の王朝です。
賑やかなインドラ・チョークからの道を詰めていくと、正面に屋根の大きさが特徴的なタレジュ寺院が見えてきました。壮麗なこの建築様式は、3-4世紀からカトマンドゥ盆地に定住し高度な都市文化を築いたネワール族のものです。
入場券は1,000ルピー。外国人からしか徴収しないそうですが、国籍チェックしているわけではないので、アジア人の場合は多分に自分の良心次第ということになりそう。
地図の右上から左下に向かって歩いてきて、38番のタレジュ寺院を見上げたところがチケットの発券所。中央下部のいくつかの中庭を内包した建物群が旧王宮です。その外のオレンジ色の小さい建物群は各種寺院で、こうして見るとあまり「広場」という感じがしません。
料金所のすぐ近くにあるのはシヴァ神の化身カーラ・バイラヴ像。剣を振り上げ生首をぶら下げた恐怖の神で、この前で嘘をつくと死ぬと恐れられていたため、かつては犯罪容疑者に自白を迫るために用いられていたそう。この像からもわかるように、この広場の周辺はヒンドゥー教の気配が濃厚です。
ジャガナート寺院。カーマ・スートラ風の「erotic carvings」が屋根を支える柱の数々に彫り込まれていて、タムさんは大喜びでみのっちたちに「四十八手」を解説していました。
ハヌマン・ドカのハヌマン像。「ドカ」は門のこと、「ハヌマン」はもちろんヒンドゥー説話『ラーマーヤナ』に登場する猿の将軍のことで、ここから王宮の中に入ることもできるのですが、時間の都合で割愛しました。周囲の鉄パイプは、2015年にネパールを襲った大地震の被害を修復する工事が今でも続いていることを示しています。
シヴァ・パールヴァティ寺院。緻密な木彫りが見事ですが、高い窓からシヴァ神とパールヴァティ妃が見下ろしているのがなんとも不思議です。
こちらはクマリの館。ここもまた窓を飾る彫刻が素晴らしいもので、ここには生き神クマリが住んでいます。クマリはカースト制度を持つネワール仏教徒のうち僧侶カーストのサキャから選ばれた少女が、ここで神として暮らし祈願や卜占を行うもので、かつてはカトマンドゥだけではなく古都パタンやバクタブルにもいたそうです。カトマンドゥのクマリは王制時代に国王に対する預言を行うという役割を担っていましたが、共和制に移行した現在でも民衆の崇敬を集め続けているそう。我々も中庭に入ってしばらく待ち、やがて正面の一番高いところにある窓から人々を見下ろすクマリの姿を拝むことができました(撮影禁止)。色彩鮮やかな衣装や装飾を身にまとった少女の顔は無表情で、小さい頃に両親から離れて神として生きることを受け入れたクマリが、何を思って日々を過ごしているのかを窺い知ることはできませんでした。
ダルバール広場周辺には他にもさまざまな寺院や博物館があり、ゆっくり時間をかけて回りたいところですが、2015年の大地震の被害が最も甚大であったのもこの辺りの歴史的建造物で、上記のように柱で支えたり修復工事をしているのはまだいい方。三重塔を持っていたシヴァ寺院や、1本の木から造られたという伝説を持ち「カトマンドゥ」の名前の由来となったカスタマンダプ寺院は、完全に崩壊してしまったそうです。
最後に立ち寄ったのは土産物屋です。旅の予定では最後にカトマンドゥ滞在日があるのですが、トレッキングの進行やルクラからカトマンドゥへのフライトに不確定要素があるため、お土産はこの日のうちに買っておく必要があるわけです。職場向けの小さなお茶のパックは昼食後にスーパーに立ち寄って購入してあったので、ここでは身近な人向けにパシュミナの織物をゲット。お店の名前が「YOROSHIKU SHOP」というくらいなので日本語OKですが、ここでトコちゃんは日本で待っているたくさんの女性たち(お水系?)のために散財をして、早くもそのキャラの一端を示していました。
そして夕食にはサプライズあり。ちょうど同じタイミングでカトマンドゥ入りしていた花谷泰広氏率いるヒマラヤキャンプ隊との合同壮行会となったのでした。
ヒマラヤキャンプとは、花谷氏が「意欲、経験、覚悟のある若者」を公募で集め、ヒマラヤの意欲的な課題(未踏峰または未踏ルート)への挑戦をサポートするという一種の教育プログラムで、この壮行会のときには行き先が公表されていなかったためにあえて聞くことはしませんでしたが、おおむね20代の若者たちはいずれも明るく好感の持てる者ばかり。そのキラキラした目を見ながら、ぜひプロジェクトを成功させて欲しいと願いました。
ヒマラヤキャンプ隊が向かった先は、マナスルの北東、チベットとの国境にあり2014年に解禁された未踏峰「パンカールヒマール」(6264m)でした。当初の予定ではパンポチェ氷河から頂上に向かう計画だったものの、5000mを越えたところにあるクレバス帯に阻まれて作戦を変更。尾根をはさんだ反対側の谷の標高2850mの地点にBCを再構築し、そちらからのアタックで5月8日に見事に登頂しました。もちろん、隊員全員での登頂です。その模様はFacebookでほぼリアルタイムに伝えられており、縁あって短時間ながら語らい合った彼らの成功を、自分のことのように喜ぶことができたのでした。