塾長の渡航記録

塾長の渡航記録

私=juqchoの海外旅行の記録集。遺跡の旅と山の旅、それに諸々の物見遊山。

帰国

2018/05/02

カトマンドゥを深夜に発った飛行機が香港に降り立ったのは、香港時間の早朝でした。そしてここまで来れば、日本との時差はもう1時間しかありません。3時間弱の乗継ぎ待ちの後、この旅での最後の飛行機に乗ったところでいち早く、腕時計の時刻表示を日本時間に合わせました。

飛行機は日本海側から大きく回り込んで午後2時頃に東京上空に達し、東京湾の上から羽田空港の滑走路へと滑り込んでいきました。

こうして、23日間に及んだエベレスト街道のトレッキングは終わりました。帰国翌日の5月3日から6日までは四連休となっており、もくろみとしてはその間に諸々の片付けを終え、ボルダリングジムにも行こうと思っていたのですが、身体の芯からの疲れは帰国から1週間ほどもとれず、その間、頭もぼーっとした状態が続いてとてもクライミングなどできる状態ではありません。旅の途中からずっと悩まされていた鼻炎が帰国して早々に治ったのは幸いでしたが、他にも深刻な後遺症が残ってしまいました。どうやら自分の身体も心も、エベレスト街道の往復の中で自覚していた以上にネパールの風土に浸っていたようです。恐るべし、ネパール。

2001年から2002年にかけてのキリマンジャロ登山で知り合い、その後、国内の山や沢でもご一緒するようになったトモコさんは、デナリやアコンカグア、エルブルース、モン・ブランなど世界各地の山を登りネパールにも4回も行っている海外通ですが、この旅で私が撮った写真をそのトモコさんに見せたところ、次のように言ってくれました。

ネパールはやはり、すてきで寒そうです。

ネパールの魅力は凄いですよ。なぜか、懐かしくなります。

私もまた喉元過ぎればナントカで、いつか再びネパールに行きたいと思う日が来るのでしょうか?

参考情報

ネパール

ネパールには、今回が初めての渡航でした。北はチベット、南はインドに挟まれていますから、両方の文化の影響を受けているだろうとはあらかじめ想像がついていましたが、このツアーの中では前者の要素をより強く感じましたし、したがって2014年末から2015年初にかけてのチベット旅行で得たチベット文化に対する知識が役に立ちました。

事前に気になっていたのは、ネパールの政情不安です。王制打破を標榜して1996年から始まったマオイストによるネパール内戦、2001年のナラヤンヒティ王宮内での王族殺害事件(親印派の王弟が親中派の国王夫妻・王太子らを排除したクーデターとの説あり)、2006年からの民主化運動と2008年の王制廃止といった具合に20世紀から21世紀にかけての10年余りのネパールが激動の時期を経ていたことは当時の報道で日本でもよく知られており、そのイメージが共和制になってから10年たった今でも自分の中に残っていたのですが、幸いカトマンドゥでもトレッキングの道中でも、そうした気配を感じることはありませんでした。コスモ・トレックのタケさんも「治安はいい」と言っていたくらいです。

むしろ今でもカトマンドゥに爪痕を残していたのは、2015年4月の大地震でした。ハヌマン・ドカやスワヤンブナートでは歴史的建造物の崩壊の跡が今でも残っており、特に前者で目にした応急措置と大規模に行われている復旧工事の様子からは、地震当時の被害の甚大さが窺い知れました。

しかし、これは地震の影響なのかそうではないのか不明(たぶん違う)ですが、カトマンドゥの町の混沌とした様子には圧倒されました。宿泊したフジホテルがパックパッカーの聖地とされるタメル地区にあることから、狭い車道とその左右に縦横に走る細い路地に面して旅行者向けの店がこれでもかというくらいに並ぶ複雑怪奇な街並みのために、うかうかしていると迷子になってしまいそうになります。そしてその狭い道を歩くと、もうもうと立ち込める土埃(?)にびっくり。あらかじめ注意を受けていましたが確かにこれはマスク必携です。さらに、まるでスパゲティのように絡み合っている電線にも強烈な印象を受けました。これはメンテナンスを放棄して次々に新しい電線を張り足していった結果で、したがって生きている電線はこの内の数本に過ぎないと思われるのですが、よくこれで漏電や感電事故が起きないものです(それとも起きているのか?)。

こちらはボダナートのすぐ近くの道路の様子。地図を見たところ、カトマンドゥ市街をぐるっと囲むリングロードの外側(東北)に位置するので多少は静かなのかと思っていたらまったくそんなことはありませんでした。

市街地のど真ん中で見掛けた牛もすごい。広い車道で堂々と寝そべっていたり、人に混じって普通に歩道を歩いていたりしますし、誰もそのことを気にかける様子がありません。ネパールはブッダ生誕の地ルンビニを擁する国であり、上述のようにトレッキングの間はチベット仏教の存在感を強く感じたのですが、実は人口の8割はヒンドゥー教徒で、ネパール王室は長らくヒンドゥー教を国教としてきた歴史があります。そのためにこうした光景が生じたのではないかと思いますが、幸いにしてこの牛たちを目にしたのは旅の最終盤。それまでの間にさんざんヤクやゾッキョの姿に触れていたためか、こうした光景に対して若干の免疫ができていたようです。

なお、AG隊のトレッキングの間はあまりネパール語を使う機会はありませんでしたが、それでも最低限以下の言葉は知っておきたいところです。

ナマステ
「こんにちは」。時間帯に関係なく使える挨拶の言葉で、これはあらゆる場面で頻繁に使いました。登山道でトレッカー同士が挨拶するときもこれでOK。
ダンニャバード
「ありがとう」。海外旅行するときには必ず「ありがとう」を意味する言葉を覚えるものですが、実はネパール人はこの言葉をあまり使わず、感謝の意を伝えるときは頭を左右に揺らして表現するそうです。実際、カトマンドゥで寺院案内をしてくれたコスモ・トレックのドライバーに最後に多めのチップを渡したときにも、彼は無言で首を左右にゆらゆらと揺らしたものです。
タトパニ
「タト」は「温かい」、「パニ」は水。よって「タトパニ」はお湯のことです。トレッキング中の食事のときはひたすらお湯(を用いたお茶など)を飲み続けたので、「タトパニ、ディノス」(お湯を下さい)は頻出語でした。

酸素

標高6000mまで行くとなれば、気になるのはもちろん高山病です。仕事帰りに定期的に立ち寄っている銀座のボルダリングジム「グラビティリサーチ」の横には好日山荘が運営する低酸素トレーニング室があるので、3月から4月にかけて何度か利用しました。

こちらは1回あたり60分間という限られた時間で、富士山頂と同程度の酸素濃度(約13%=平地の4割減)の中で安静滞在及びウォーキングを行い、その後15分間高酸素室でレストして終了というもので、低酸素状態にある間は5分ごとにパルスオキシメーターで血中酸素飽和度(SpO2)と脈拍を測ります。このトレーニングがただちに順応効果をもたらしてくれるわけではありませんが、呼吸法を変えることでSpO2がどのように変わるかを体験できる点には意味があり、実際、呼吸法を意識しながら運動をすることでこの酸素濃度の中でもSpO2を90%程度に維持することができた経験は、旅の途中で活かされました。

何日にもわたるトレッキングの間、先頭を歩くバラサーブからはそれこそ何百回も「深呼吸して」「お水を飲んで」と隊の全員に対して指示が飛んだのですが、呼吸に関しては、大切なのは吸うことよりも吐くことです。過呼吸にならない範囲内で強く大きく息を吐くことで、肺胞に対し圧力をかけて酸素の吸収を促すと共に、新たな空気を胸いっぱいに吸い込む余地を作ることができるようになるため、歩いている途中でも数分おきに深い呼吸を繰り返しました。一方の水分については、歩いている間はハイドレーションシステムの使用が推奨され、食事のときにもとにかく紅茶やココアなどのかたちで水分を摂ることを促された上に、就寝時にもテルモスに入れたお湯を枕元に置いて、夜間に排尿したらこれを補うかたちでお湯を飲むように指示されました。トレッキングが始まってからのSpO2の測定は、毎晩夕食が終わったあとと翌朝起床時刻に横になったままの状態での1日2回、エベレストBCを離れるまで毎日欠かさず行われましたが、このようにして薬品に頼らない自然な高山病対策を地道に続けた結果、旅の間(風邪の症状が出たロブチェBCを除き)おおむね良好な数値を維持できました。

しかし実はそれ以上に不安だったのは、1月頃から時折、動悸・息切れを感じるようになっていたことです。山道を登ると息が切れるというわかりやすい現象とは異なり、身体に負荷をかけていないタイミングで不意に胸が苦しくなることが重なるようになっていたため、3月上旬に総合病院に足を運んで診察を受けたのですが、CTスキャンをしてみても心臓や肺には異常がありません。強いてありうるとすれば逆流性食道炎が影響しているのではないかと胃カメラを飲まされたりもしましたが、決め手となるような原因は見つかりませんでした。かたや、ツアーに参加するための健康診断を別の病院で受診したところでは肺活量4,320cc(予測肺活量比118%)と問題がなく、こちらの医師からは「行ってらっしゃい」と能天気な太鼓判を捺されました。

結局のところ4月に入るまで動悸・息切れが収まることはなく、その原因もわからないままに旅に出ることになってしまったのですが、ツアーの間はこの症状を自覚することがなかったのですから、案ずるより産むが易しとはこのことです。

装備

標高6000mに近いところへの登山経験としては、2001年末から2002年初にかけてのキリマンジャロがありますが、今回のプレモンスーンシーズンのヒマラヤはそこそこの寒さ対策と雪への対処が必要。そこで、AGから提示された装備一覧をもとに必要装備を揃えてロブチェに臨みました。以下は各装備のリストと、それぞれについてのインプレッションです。

登山靴
これが一番悩ましいところでした。AGの指定は「ダブルブーツが最適」というものでしたが、今後もコンスタントに高峰に行くつもりならともかく、このツアーだけのためにダブルブーツを購入するのもいかがなものか……というわけで、手持ちのスポルティバ ネパール キューブ GTXにモンベル製のオーバーシューズを重ねることにしたのですが、その結果、肝心なところでアイゼンが外れてしまい、プラチリから「これ(オーバーシューズ)はダメだ」と言われてしまいました。そもそも、ロブチェ・イーストへのアタック日の気候ならオーバーシューズすら不要だったと思えるのですが、それはあくまで天候に恵まれていたからの話なので、確実を期するならやはりダブルブーツにするべきだったかもしれません。
トレッキングブーツ
普段、歩きの局面ではアプローチシューズしか履いていない私も、さすがに長期のトレッキングとなるとそれではまずかろうとツアー直前に購入したのはモンベルのツオロミーブーツです。足慣らしに北高尾山稜を歩いたときは踵が当たる感覚があったのですが、その後、ウイスキーの瓶を内側から当てて紐をきつく締めることで矯正した結果、本番でのトレッキングの間は大変良い具合でした。
アイゼン
ネパール キューブに合わせていつものBDサイボーグを使えれば良かったのですが、上述の通りオーバーシューズを重ねることになったため、セミワンタッチ(爪先を樹脂製ベイルでとめる)アイゼンを購入しました。そして、これがうまくいかなかったのも上述の通りです。
ピッケル / ハーネス / ヘルメット / カラビナ / ストック
これらは普段使いのもの。軽ければ軽いほどベター。
アッセンダー / エイト環
ペツルのアッセンションを新たに購入。ごつい見た目の割に軽量で、よく働いてくれました。
また、私はこのアッセンションを手持ちのデュアルコネクトアジャストの短い方のアームに取り付け、長い方のアームとスリングとをランヤードとしてヴィア・フェラータの要領で使用しましたが、スリングよりもPASの方が取り回しが良かったかもしれません。一方、下降器としてATCではなくエイト環が推奨されているのは、ロブチェ・イーストからの下降時に使うフィックスロープの径に柔軟に対応できるためです
バッグ / リュックサック
ポーターに持ってもらう大型リュックサックとしてモンベルのリッジライン パック 75を持っていったのですが、バラサーブの「それでは(汚れるから)もったいない」の言葉に、旅の2日目にカトマンドゥ市内で安いダッフルバッグを二重にできるようにXLとLの二つのサイズ購入しました。
一方、自分が背負うリュックサックとしてはオスプレーのミュータント38を持参しました。実際に使ってみても、ロブチェへの登りも含めてこれがジャストサイズでした。
インシュレーションウェア / アウターシェル / 手袋
インシュレーションウェア(ダウンまたは化繊綿)は上下とも絶対に必要。ロブチェ・イーストへの登攀ばかりでなく、BCでの滞在時にも寒さ対策がとても重要で、とにかく暖かい格好をして飲める限りのお湯を飲み続けることが高所生活の負荷を軽くするための秘訣でした。なおロブチェ・イーストへの登攀時には、上は一番外側を化繊綿のジャケットとし、下はベースレイヤーの上にダウンのパンツを履き、その上に薄い雨具のパンツをアウターとして重ね履きをしましたが、動きも軽く快適でした。また、登攀時のグローブの選択はかなり重要です。保温を確保しつつ、カラビナやアッセンダーをスムーズに操作できることが求められるため、普段から冬季アルパインクライミングでこうした操作に親しんでいるグローブがあることがベストです。
ハイドレーションシステム / テルモス / ピーボトル
歩いているときは高山病対策のために常時水分を摂取することが求められるため、ハイドレーションシステムは必須。また、夜間はお湯をテルモスに入れて枕元に置き、排尿の都度、お湯を補給する必要があるため、テルモスのサイズは1リットルくらいが適当です。さらに、テント内での就寝中に尿意を覚えたときにわざわざテントを出てトイレまで行くのではなくテントの中で排尿をするためにナルゲンボトルを用います。私は1リットルのボトルを二つ持参しましたが、今回の旅では夜間に少なくとも2回、多いときは5回も排尿した(多いほど良い)ので、これが容量的にはちょうど良かったようです。
医薬品 / 紙おむつ / ロールペーパー / マスク
遅かれ早かれ、ネパールの旅ではそのどこかでお腹を壊すのは必定。そのために予防策としての胃腸薬(「ザ・ガード」が有効でした)と下痢をしたときの止瀉薬がまず必要です。そして、想像以上に有効だったのが大人用の紙おむつ。ロブチェ・イーストへの登攀時にはトイレに行くこともできないだろうからと用意したのですが、実際はその頃には胃腸薬のおかげで下痢の症状は収まっており、また登攀中は尿意を催すこともなかったため、紙おむつがその実力を発揮することはありませんでした。しかし、それでも「ちょっとお腹が緩いな」というときに紙おむつを履いていることの安心感は絶大でした。また、自分も含め何人かはアレルギー性鼻炎にかかりましたが、アレルゲンが何であったのかは不明です(ヤクの糞が粉塵となって飛んでいたためとの説もあります)。ともあれ、鼻炎薬があればベターですし、鼻をかみ続けることになるためロールペーパーは手放せませんでした。さらにカトマンドゥ市内やトレッキングの道中では埃が多い場所が少なくなく、そのために呼吸を妨げない程度に薄いマスクが重宝しました。
電子機器 / バッテリー
いつもの旅ならMacBook Airを持参しますが、今回はシンプルにカメラとiPhoneだけを持ちました。トレッキングの途中も、BCはともかくナムチェ・バザールやディンボチェのようなちゃんとした宿泊施設なら有料で充電が可能ということでしたが、念のためiPhone用に大容量のモバイルバッテリー、カメラ用には替バッテリーを二つ、それぞれ持っていったので、電源不安を感じることは一切ありませんでした。ところで、iPhoneを通信手段として使うためにはカトマンドゥでSIMを購入するかロッジのWi-Fiを使用することになります。今やたいていの宿には有料のWi-Fiサービスがあるということでしたので私はもっぱらWi-Fiに頼ることに最初から決めていたのですが、ナムチェ・バザールなら500ルピーで使い放題、そこから上部のトレッキングルート上のロッジでは600ルピーでデータ量200MB、エベレストBCでは700ルピーで100MBでした。
もっとも、お金を払えば必ず使えるのかというとそうでもなくて、天候の影響により通じなかったり、利用者が集中して使えなくなったりと不具合が多かったのが実情です。しかしここはビスターリの国。一度で通じればラッキーくらいのつもりでゆったり構えていなければ、無駄に心拍数が上がることになってしまいます。

運搬

ルクラからエベレストBCに至るエベレスト街道は、車が走れる道ではありません。このため、この幹線ではさまざまな運搬手段を目にすることになります。

標高が低いところではロバが活躍しますが、おとなしそうな顔をして黙々と荷を運ぶその姿には同情してしまいました。かっつんは「あのロバたちは、何をモチベーションに重荷を運んでいるのか」と哲学的な疑問を呈していましたが、さすがにその問いには答がなさそうです。

標高が上がると、毛の長いヤクや、雌ヤク(ナク)と雄牛を掛け合わせたゾッキョの出番です。ゾッキョはヤクの生息域よりも低いところでも仕事をさせられるようにと生み出されたもので、角が前を向いており(ヤクは後ろを向いている)、性格もヤクに比べておとなしいのが特徴です。なお、登り方向ではほぼ例外なく多くの荷を背負っているヤクも、下り方向では空荷になって楽をしている姿をよく見掛けました。タムさん曰く、このことを「おヤク御免」と言うのだそうです。

お金に糸目をつけなければ、最も機動力のある運搬手段はもちろんヘリコプターです。道中の主要ポイントには必ずヘリポートがあり、天候が許す限り1日のうちに何度も往復している姿を見ることができます。そしてその最重要な役割は、高山病に罹患した登山者を下界に降ろすことではないでしょうか。しかしお金持ちのためのツアーではヘリコプターを主要な移動手段として積極的に用いるプランも見受けられ、中には、旅の9日目にカラ・パタールまでやっと辿り着いたと思ったらその日のうちにゴラクシェプからカトマンドゥへ直接ヘリコプターで帰るというツアーがあって、しかも飛行時間はたったの1時間半だと書かれていて仰天しました。

とはいえ、やはり人間の力は偉大です。標高の低いところから高いところまで、道の良いところも悪いところも、最後の切り札はポーターの人力搬送です。

驚くほど多くの荷を背負ったポーターは、多くの場合右手にT字形の木の棒を持っています。よく使い込まれたこの木の棒は、運搬の途中で一休みするときに背中の荷の下にあてがってその重さを支えるためのつっかえ棒として用いられます。

しかし、ポーターの世界にも世代交代は進んでいる模様。スマートフォンで音楽を聴きながら荷物を運ぶ姿はごく一般的ですし、写真のように髪を金色に染めた現代風の若者ポーターの姿も見掛けました。

そして、道中で見掛けたロッジの建設ラッシュの様子からは、この地域の人々が観光・接客業で着実にお金を稼ぎつつあることが伺えます。お金を儲けた親たちは、自分の子供により高い教育をほどこし、ポーター業よりも楽で稼ぎの良い仕事につけさせたいと願うことでしょう。あと何世代か後には、エベレスト街道のポーター業のありようは大きく変わっているかもしれません。

エベレスト隊

今回のツアーは「エベレスト公募隊応援ツアー」と銘打たれているように、エベレストBCまで行く9人がエベレスト隊5人に帯同するというかたちをとっていました。単なるトレッキングではエベレストBCに宿泊することはできませんが、こうすることによってBC三連泊が実現したわけです。

主役のエベレスト隊はこちら。左から沙織さん、かっつん、タムさん、ヒロくん、泡爺、そして彼らを率いるバラサーブ。右端の大男はもちろん、頼もしいプラチリ・シェルパです。エベレスト隊のメンバーのうち沖縄に住むヒロくん以外の4人とは3月27日にAGの事務所で行われたツアー前説明会で初めて顔を合わせたのですが、ここで沙織さんの顔を見てびっくり。もしやと思って声を掛けてみたらやはり、2014年にシャモニーで1日だけご一緒した「Mさん」でした。しかも、私の山友トモミさんが折々に山に連れて行ってもらっている登山ガイドもまたこの沙織さんで、二重の奇遇だったわけです。奇遇と言えば、かつて錫杖岳でご一緒したヨシワダ氏とヒロくんとが沖縄で顔見知りであったり、そのヨシワダ氏と共に登ったヤマダくんが水生さん・かみちゃんとパタゴニアつながりだったり。「山の世界は狭い」というのはこれまで何度も実感してきたことですが、まさかこのツアーでもその格言(?)が生きることになるとは思っていませんでした。

© 2018 アドベンチャーガイズ

さて、我々と別れた後のエベレスト隊は、高所順応クールに入ってC2ステイから6800mまで上がった後にBCへ降りた後、天候が悪い期間を利用して体調を整えるためにヘリコプターでナムチェ・バザール(泡爺はさらにルクラ)まで下って大レスト。心身を癒してからBCに戻り、いよいよ5月15日からサミットプッシュを開始しました。

エベレスト隊の動向は随時AGのブログ等で公開されており、さらにGARMIN inReachでバラサーブの動きもリアルタイムで見ることができたので、ロブチェ隊のメンバーも固唾を飲んで見守っていたのですが、その結果は、まず5月19日の深夜にサウスコルのC4からエベレスト山頂に向けて順次出発した後、泡爺が行動30分で体調不良を自覚し勇気ある撤退。しかしヒロくん、かっつん、沙織さん、タムさんは翌20日にこの順番で登頂に成功しました。© 2018 アドベンチャーガイズ

その後、エベレスト登頂が早かったヒロくんとかっつんはC4ステイ、沙織さん、タムさん、泡爺の3人はローツェを諦めてC2に下降。そして5月21日のヒロくんとかっつんのローツェへのアタックは、ヒロくんが登頂、かっつんは8350mまで。どちらも見事です!

ところがこうしたエベレスト隊の活躍の影で、よもやと思われる事態が起こっていました。それは、あの栗城史多氏の事故死です。

このことについては既に「備忘録」の方で書いたのでもうこれ以上言葉を重ねようとは思いませんが、たとえ「下山家」と呼ばれようとなんだろうと、やはり生きて帰ってくることが山に登る者の務めなのだと改めて思いましたし、かたや8000mの稜線に立ちながらも確固たる自身の判断で下山を決断した泡爺は、やはり素晴らしいクライマーなのだとも実感しました。

そうしたことも含めて、エベレスト隊の皆さん、お疲れさまでした。そしておめでとうございました!